暉峻創三さん(映画評論家/「テルオカくん」役)、
を語る
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で謎の学生「テルオカ君」役を演じ、現在はアジア映画の評論をメインに活躍されている映画評論家の暉峻創三さん。
『洞口依子映画祭』(2009)では、「黒沢清X洞口依子トークイベント」の司会進行役を務めていただき、満場の拍手を持って迎えられていました。
あの映画をご覧になったかたなら、「レコード貸してあげようか?」と秋子に接近しようとする「テルオカ君」の存在が気になってしょうがない、という人も少なくないはず。
シネマヴェーラ渋谷でのこの映画祭で久しぶりに洞口依子さんと再会したという暉峻さんに、『ドレミファ娘』撮影時の貴重なお話をうかがいました。
(「洞口日和」管理人・夢影博士)
(「INTRO」サイト掲載:「洞口依子インタビュー・シネマヴェーラ特集上映によせて」も併せてどうぞ!) |
『ドレミファ娘』出演の経緯 |
暉峻創三さんにお話を伺いたいと思います!
暉峻さん 「なんでもどうぞ(笑)」
暉峻さんは、法政大学で自主映画を作ってらっしゃった頃から、(立教大学の)黒沢清監督とのつながりはあったのでしょうか?
暉峻さん 「はい。黒沢さんはPFFに入選した直後ぐらいで既に有名だったんですけど、8ミリ映画を作っている憧れの先輩みたいな感じで知り合ったんです。
その頃、圧倒的に異彩を放っていたのは立教の「パロディアス・ユニティー」で、他には早稲田の「シネ研」がありまして、法政はとくに目立ってはいませんでした。」
当時、何人くらいで1本の映画を作っていたのですか?
暉峻さん 「その頃は8ミリ映画を作ってるサークルというのは各大学に山ほどあったんですが、ぼくのいたサークルでは、1本につきせいぜい4~5人でしたね。
ぼくは機械の操作が苦手だったのでカメラマンは必要でした。 カメラマンが照明係を兼ねたりしていて、最低限カメラマンがいれば作れるという感じでした。
録音もカメラに付属のマイクで同時録音していましたし。 『革命前夜』という作品では出演者が5〜6人は必要でしたが、それも助監督を兼ねたりしていましたよ」
『革命前夜』にしても万田邦敏さんの『四つ数えろ』にしても、中学の頃に「キネ旬」の年鑑のバックナンバーで解説を読んだことがあると思います。
暉峻さん 「あ、ほんとうに?載ってたんですね」
はい。『四つ数えろ』というタイトルが気になって、登場人物に「ラズロ・コヴァックス」なんてのがあったりして、「なんだろう、これは?」と興味を持ってました。
暉峻さん 「『パロディアス・ユニティー』は、名前からしてそうですけど、パロディー的なことが大好きなサークルでしたね」
どういう経緯で『女子大生恥ずかしゼミナール』に参加されるようになったんでしょうか?
暉峻さん 「最初は美術助手としてだったんです。 黒沢さんや万田さんたちと知り合って、あの映画を黒沢さんが撮るとなったときに、
暇そうな人間がぼくや塩田明彦さんくらいしかいなかったんだと思います。
まだ学生だったので時間はたっぷりありましたし、生活の心配もしなくてよかったし、頼みやすかったんじゃないでしょうか。
美術助手とはいえ、美術監督のもとに雇われたのではなく、初期の初期には脚本を作るところから参加しました。 美術助手が美術監督より先に決まってたんですよ(笑)。
あの映画は少し変わった作り方をしていまして、おおまかなあらすじを説明された後に、ぼくもシナリオを書くことになったんです。
たぶん塩田さんも書いたと思いますし、もちろん万田さんも。それらを基にして全体の脚本が出来上がっていったんです。」
たしか、最初のアイデアではもう少しハードな内容のストーリーがあったとか・・・最初は、お姉さんを探しに来る設定だったそうですね。
暉峻さん 「タイトルも最初はちがう候補があったみたいですね。 あれは・・・『もぎたてのお尻』?」
『産地直送 もぎたてのお尻』ですね。
暉峻さん 「そうそう。 その時代はぼくは知らないんですよ。学園ものというのは決まってましたが」
学園もの、というのは会社の要請だったんでしょうか?
暉峻さん 「その段階でのやりとりはぼくは把握していないんですが、ロマンポルノとしてお約束を果たしていればあとは比較的自由だったんだと思います」
ブラームス  |
暉峻さんは、その頃『ブラームスを愛する』という作品を撮られてますよね。
暉峻さん 「えぇ。よく知ってますね!」
あれは、『ドレミファ〜』の後ですか?
暉峻さん 「『ブラームスを愛する』って何年でしたっけ?」
85年じゃないでしょうか?
暉峻さん「それだと微妙な時期ですね。『ドレミファ』の公開は85年のいつ頃だったかな」
東京公開は秋です。
暉峻さん 「ますます微妙だなぁ。 その頃、ぼくが個人的にブラームスに入れあげていたのは確かなんですが、どっちが先かはもうわからないですね。
『ドレミファ』もにっかつから配給拒否された後、しばらく放置されていた時期もありましたし」
『ドレミファ』の中で出てくるブラームスがらみのシーンは、完全に暉峻さんがかかわっている場面ばかりですよね。 ラストもそうだし、アパートの部屋のシーンもそうですし。
暉峻さん 「撮り足した部分では、ぼくやスタッフが自前で持ってきた小道具が多くて、ブラームスのレコードもぼくの私物だったのは確かです」
ブラームスというと、ちょっとモラトリアムに似合う感じもあって、それであの映画の設定に使用したのかなという深読みの意見もあるんです。
暉峻さん 「そう言われるとそうとも言えますね。 そこまで考えていたわけではないんですけど。
あの映画で出てきたブラームスのピアノ曲のLPは、グレン・グールドが演奏しているものです」
あ、グールドですか。
暉峻さん 「はい。個人的にその頃愛聴していたので……」
『ブラームスを愛する』の設定の、同棲中のカップルの淡々とした一日、という記述だけ読むと、『ドレミファ』でのあのアパートの場面が思い浮かびます。
暉峻さん 「ブラームスに関しては完全に当時のぼくのブームですね。 それで監督が何かを意識的に使用したということではないと思います」
だとすると、よけいにラストでブラームスの子守歌が歌われた経緯が気になります。
暉峻さん 「なんでそうなったのかは、ぼくも聞いてないんですけどね。 当時は特に『ドレミファ』のためというわけではなく、黒沢さんの家にしょっちゅうお邪魔して駄弁っていたので、
そういう中で自然とブラームスの話をしていたかも知れません。
黒沢さんの映画作りの特徴として、映画のあらゆる細部を監督の思うとおりの色で染め上げようとはしない、ということがあります。
スタッフや俳優が持ち出してきたものが時に自分の意図とは違っていても、それを貪欲に、魔術的なまでの手綱さばきで採り入れようとするのが特徴です。
大学のキャンパスの立て看などにも、ドゥルーズから柄谷行人、浅田彰まで、当時マイブームだったものが反映していますが、あれもぼくらが勝手にやってしまったことで、
黒沢さんの指示ではありません。今となってはお恥ずかしい限りですが……」
撮影現場  |
ビデオでの追加撮影のときというのは寒い時期ですよね? (洞口依子さんが)カメラに向かってモノローグを言うところなんかも。
暉峻さん 「寒い時期でしたね。 あのシーンは井の頭公園ですよ。 で、ラストは多摩川の河原で撮ったんです」
ビデオ撮りのシーンが追加されたことで、あの映画のねじれた面白さがより強まったと思うんですが、それは実際に作られているときにはどの程度予感されていましたか?
暉峻さん 「当初の『女子大生恥ずかしゼミナール』の撮影時から、ぼくはこれは充分におもしろいなと思っていました。その段階でも相当にユニークな映画ではあったんですけど、
『ドレミファ』ほど破天荒ではなかったですね」
『女子大生恥ずかしゼミナール』のラッシュはご覧になったんですよね?
暉峻さん 「観てます。結局、公開できないと言われたときの重い空気もよくおぼえてます。
ぼくは撮ってるときから傑作になることは確信していましたが、それまでにプロの現場をこなしているスタッフからは不安がる声もありました。
一般の常識では繋がらないようなカットを次々に撮ってましたしね。 その頃からジャンプ・カットが多用されていたりしましたしね」
スタッフはほとんど自主映画の仲間が多かったということですが、撮ってるあいだの雰囲気は和気藹々としたものがあったんですか?
暉峻さん 「日本映画の現場としてはそうかもしれません。
でも、そうは言ってもにっかつロマンポルノはハードスケジュールですし、さらにあの現場では黒沢さんが完全に絵コンテを描いてきてその通りに撮るやり方でしたから、
和気藹々というのは正しくないですね。今では黒沢さんもそういうやり方はしてないようですが」
先程おっしゃったような、「これは傑作になる!」というお話をスタッフ間でされていましたか?
暉峻さん 「あえてはっきりとそういう話をしたことはないですが、絵コンテを見た段階で傑作になる予感は、少なくとも自主映画出身スタッフの間では共有されていたと思います」
印象に残っている絵コンテはありますか?
暉峻さん 「具体的にこれというより、カットの積み重ねかたに、いい意味で前衛的な文法がちゃんとあって、そのことに感心したおぼえがあります。」
美術助手から出演にまわったのは、どういう経緯からですか?
暉峻さん 「にっかつからディレクターズ・カンパニーが権利を買い戻すあたりのやりとりについてはぼくはわかりませんが、一般映画として公開するためには少々分数が足りなかったんです。
通常、成人映画は60数分に仕上げるのが前提ですから。でも撮り足すとなっても、新たにプロの役者を呼ぶお金はない。
それで、その頃も相変わらず暇そうだった自分に、出演してほしいという話が来たのでしょう」
タイトル  |
「暉峻くん」というキャラクターについての説明などは、どんなものがあったんですか?
暉峻さん 「なにもないですよ(笑)」
(笑)なにも?
暉峻さん 「ええ。 あの映画全体のなかでぼくの役がどういうキャラクターなのかは、いまだによくわかっていませんよ。」
いちおう、秋子の同郷の人なんですよね。
暉峻さん 「おそらく、そうらしいですね(笑) 現場でも登場人物の人間関係やバックグラウンドなどなにも考えることなかったです。 あの映画でそういうことを理解してもあまり意味ないですからね。
しかもビデオの部分の撮影は、役者の立場で今振り返れば、不満があります(笑)。実はカメラが回ってるとは知らなくて、リハーサルで軽く流しているつもりだった。
で、本番では本気で凄い演技を見せてやろうかなと考えていたら、実はリハがこっそり録画されていて、それがOKカットとして採用されちゃったんです」
でも、あのキャラクターが出色なんですよね。 最後にちゃんともう一度出てきますし。
暉峻さん 「いちおう、まとまりはありますよね(笑) それから、伊丹さんと学生たちが♪ドレミファ〜と合唱するシーンも撮り足しなんですよ。
あれで『ドレミファ娘』というタイトルを根拠づけたんじゃないでしょうか」
ちょっと待ってください・・・『ドレミファ娘の血は騒ぐ』というタイトルは、どの段階で出てきたんですか?
暉峻さん 「にっかつロマンポルノとしての配給が拒否されたのを、ディレクターズ・カンパニーが買い戻してからタイトルが変わったんです」
最初にそのタイトルを聞かれたときはどう思われましたか?
暉峻さん 「すぐにおぼえられる、素晴らしいタイトルだと思いましたよ」
ちょっと鈴木清順っぽい感じもあって。
暉峻さん 「あぁそうですね。 そのタイトルを聞いてすぐに追加撮影の絵コンテを見せてもらったときに、さっきの♪ドレミファ〜を合唱するシーンもありました」
タイトルが変わったときというのは、諸事情あって、スタッフとしても暗い雰囲気になってたときですよね?
暉峻さん 「そうですね。 でも、いっぽうで、当時の黒沢さんを囲む熱気というのがありまして、このままお蔵入りなんてありえない!という確信めいたものがありました。
落ち込んだ感じではなかったですよ。なんらかの形で世に出ると思ってましたからね。 あぁいう形で撮り足すとはぼくも思っていませんでしたが」
『女子大生恥ずかしゼミナール』というタイトルの映画と、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という秀逸なタイトルの、しかも会社から勝ち取った映画を作るのとでは、
スタッフの意気がちがってたんじゃないかと思うんです。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という新しい旗印に盛り上がったのではないかと。
暉峻さん 「新しいタイトルをつける段には関与していなかったんですが、思いついた瞬間には、みんな傑作なタイトルだと喜んだんじゃないでしょうか。
あの戦闘シーンなんかはふだんのパロディアス・ユニティの作りと同じで、一般映画にするために撮り足しているんですけど、現場の雰囲気はほとんど自主映画
製作のようなところがありましたよ。 最初の『女子大生恥ずかしゼミナール』の頃と撮り方も変わっていて、カットを割らずに長回しで撮っていましたね。
気持ちよく終わったのをおぼえています。 経済的には難しくなったはずなんですが、なぜか苦労した思いや大変だったという印象はないんです。 楽しく撮影が終わりました」
まさに「戦争ごっこ」でしたか。
暉峻さん 「そうですね。 あれだけの長回しでもリハは1、2回だけでした。ぼくはもう走ってりゃいいという意識で、ほとんど演技という感覚はなかったです。洞口さんは大変だったでしょうが」
洞口依子さんについて  |
このあいだのトークイベントでは暉峻さんが冗談で「いつ(洞口依子さんに)怒られるかとヒヤヒヤしてました」とおっしゃってましたが、まったくの新人女優だったわけですよね。
それでも何かそういう近寄りがたいオーラがあったんですか。
暉峻さん 「近寄りがたいというのはちょっとちがいますが、でも特別なオーラがあったのは確かです。最初は、やすやすと声をかけられない感じはしましたね」
それは洞口さんが緊張されていたということでは?
暉峻さん 「それもあるでしょうね。 自分は下っ端の美術助手に過ぎませんでしたから、ぼくから話しかけるようなことはなかったと思うので、たぶん洞口さんの方から話しかけてきてくれたんですね」
現場では彼女は何と呼ばれていたんですか?
暉峻さん 「『洞口さん』ですよ。みんなそう呼んでいたような気がするな」
それはマナーとしてですか?それともなにかオーラのようなものですか?
暉峻さん 「なんとなくアダ名を思いつかなかったというのもあるし、いつもの自主映画仲間とはちがうとこから来ていたせいもあるんじゃないでしょうか。
撮影当初は彼女が映画好きということも知りませんでしたが、途中から、どうもかなりおもしろい人らしいということがわかってきて(笑) こういう映画を作ることにも興味を持ってるみたいだということも」
彼女はよく、あの映画の撮影はヌーベルバーグの現場を思わせて楽しかったということを書いたりされてます。
暉峻さん 「そうは言っても、『女子大生恥ずかしゼミナール』の頃は大変だったと思いますよ。 『ドレミファ娘の血は騒ぐ』になってからは、とてもリラックスしてやってるように見えました」
彼女にアーティストとして特別なものがあると思いましたか?
暉峻さん 「それはもう現場にいるときから、圧倒的に光り輝いていました。 どんな表情やポーズをとっても絵になる」
彼女の魅力というのは、「わかりにくい」と表現されることもあるんですが、どう思われますか?
暉峻さん 「わかりにくい・・・たしかによくあるヒロイン役を演じるタイプとはちがうとは思うんですが、でもぼくにとっては逆に最初からわかりやすかったです。
わかりにくいと思ったことはなかった。こわいのか優しいのかわからない、と感じたことはありましたけどね。 キャラクターとしてはむしろ映画的だなと思いますね。
洞口さんは当時から映画と同じくらいに音楽にも造詣が深かったですね。ぼくもいろいろ教えてもらいましたよ。もともと音楽をやらせてもかなりおもしろいセンスを持ってたんだなぁと思います」
洞口依子さんの闘病について知ったのはいつですか?また、それをどう受け止められましたか?
暉峻さん 「他の人より早く知ったということはなく、彼女がこの事実を公表した時に知りました。とてもショックを受け、同時に、彼女に何と言えばいいのか、頭が真っ白になって途方に暮れていたんです。
そしたら、直後に彼女の方から連絡してきてくれた。周辺の皆を心配させないように、気を遣ってくれたんですね。本当に優しい人だなと感激し、同時になぜかこちらが元気付けられもしました(笑)。
撮影から25年たって  |
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という映画は、上映すると若い人たちが来るんですよね。
暉峻さん 「うん、驚きましたねぇ」
で、いまだに賛否両論なんですよ。それって25年前のぼくたちの反応とほとんど変わっていない。なにがこんなに若い人たちを惹きつけるんでしょうか?
暉峻さん 「ひとつには黒沢清監督作品であることでしょうね。 世界的な監督となった黒沢さんの初期の作品に対する興味。
それと洞口さんが、いわゆる芸能界的な世界だけでなく、独自の立ち位置でここまで来られたじゃないですか。それが若い人たちに興味を持たせるんじゃないでしょうか。
彼女は芸能人として消費されてきたわけではないので、洞口依子という存在がより独自のものになったこともありますし、若い頃の作品はそうそう簡単に上映されませんしね。
でも、ここまでお客さんが来るとは思っていませんでした」
逆に、25年たって『ドレミファ娘』という映画が古く感じられるところはありますか?
暉峻さん 「それはないですね。 あれは完璧な映画で、現在いろいろな映画を観て評論を書いたりするうえでも、あの映画の体験がベースになっているところがあります。
もし自分に数少ない自慢できることがあるとすれば、それはあの映画の現場を体験しているということですね」
それは、直接的なものだけでなく、ですか。
暉峻さん 「直接的にも、間接的にもあります。ひとつのショットを撮るのにどれだけ大変な思いをしているのかがわかる、ということも含めてです。
アジア映画を評論していくうえでも、それがあらゆる点でいまも生きていると思います」
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