5年目の春に、「ただいま」。
洞口依子さんインタビュー vol.3 (2009年3月21日 東京・駒沢公園内)


3月18日にお誕生日を迎えた依子さんを訪ねて、その3日後にインタビューを取らせていただきました。
「バースデー・インタビュー」です。
そしてこの2009年のお誕生日は、依子さんが子宮頸がんの手術を受けてから、5年目に当たります。

よく知られているように、がんと闘病するかたにとって、この「5年」という数字は、重い意味を持ちます。
このインタビューでも、お誕生日とともに、5年目を迎えた依子さんの心境が焦点となりました。

インタビュー場所となった駒沢公園は、依子さんが入院していた病院のすぐそば。
この日は、連休中、最高の行楽日和で、園内は家族連れや犬を散歩させる人たちで賑わっていました。
歩きながら、「あれがその病院」と依子さんに教えていただいた建物を見たとき、
その場所と、自分の見知ったそこにまつわる物語と、いま自分がそこに居ることの不思議にとらわれました。
そして、そんな私の思いや、依子さんの感慨を知るよしもない、ごく当たりまえの春の風景が、
一瞬、掛け替えのない宝物のように感じられました。

とにかく笑いの絶えないインタビューでした。
あまり「(笑)」などを入れすぎると、じゃらけた観があるので抑えましたが、
それでも実際はこの何倍も依子さんは笑っていました。

(以下、ブルーのコメントが洞口依子さんの発言です



★やっと晴れ晴れとした気持ちで『子宮会議』を読めます! 

お誕生日、おめでとうございます! そして、手術後5年が経過ということで、おめでとうございます!!
  
「ありがとうございます!」
 

 
「やった!」という気持ちですか?それとも、「ホッとした!」ですか?

「そうですねぇ。『子宮会議』のエンディングで、
『やっとここまで辿り着いた私。ただいま』って言葉があるでしょう?
あの本を書くにあたっての終着点としてあぁいう結びにしたんだけど、
ほんとにそれを実感しています。

今年に入って何度かリーディング・セッションを行っているけれど、
やっとあの言葉を心の底から読むことができる、すばらしく晴れ晴れした感じなの。
どこにでも飛んでいける感じ。 雲の切れ間からひょっこり顔を出して…
それまでは、大丈夫なのかなとか、墜ちるのかなとか不安ながらも、
いろんな人が私の飛行機に乗ってるし、とにかく安心しようとしていたんだけど、
やっと気流が安定したので、『シートベルトをおはずしください』(笑)、
『お飲み物のサービスをいたします』(笑)って、そんな気分ですね」
 
それを聞けて、 乗ってる人間も安心ですよ。
 
「それに、いまが春でしょ? 
『子宮会議』のラストの、『咲き開くレンギョウの黄色やマグノリアの白が心踊らせる』、
ほんっとにあの感じなの。
今までもちゃんと朗読していましたけど、やっとその言葉を晴れ晴れと、正々堂々と読める!
5年ってこういう実感なんだなぁって思いますねぇ」
 
5年の間にも気持ちのアップ&ダウンがあったのでしょうが、そのアップのときよりも、遥かに上昇、ですか?  
 
「安定、ですね。生きてる以上は今後もいろんなことが待ち受けてると思うけど、
子宮頸がんの再発で脅かされるということは、もうないんだろうなって」
 
ぼくの家族も今がんと闘病中なんでお聞きしたいんですけど、5年という考えは、常に心のどこかにありましたか? 
 
「ありました。
私ががんになって初めて感じたことがあって、
それまでは、死ぬとか生きるとか、深く感じたことはないんですよ。
生きていて当然と思ってたんだけど、じつは、生と死の問題というのは日常のどこにでもあって、
コインの裏表みたいに一体になっていて、それがどっちを向くのかなという不安をはじめて実感したんですね

ほかのがん闘病中のかたともお話するんですけど、『5年』というのも曖昧な数字だよね、って。
でも、
そこに向けてお医者様も、一生懸命、並走してくださるわけで。
だから先生がたも、退院した患者のかたからの元気な便りに励まされるんですって」

今、とても表情も明るくお元気そうですが、現在のような姿は、退院した当初、イメージで描くことはできましたか?
 

「漠然とした像はあって、それがいろんな人たちの支えで輪郭線が削りだされて、
やっとはっきりする感じじゃないかな。
ただね、これは病気にかかわらず、私って目標に到達する前に壊しちゃうことがあるんですよ。
そっちじゃなくて、もっと違うふうになりたい、とか。 
だから、いまこうして輪郭線ははっきりしてきたけれど、ここからまた発展していきたい。
上昇志向もあれば下降志向もあるんですよ」
 
「下降志向」というのは、変化し続けたいということとは違うんですか?
 
「刹那的で破滅的なところがあるんですよ。
ひたすら上昇を目指していれば、いろんな意味でもっと大きくなれるのかもしれない。
でも、草の根的な活動をやってみたり、不特定多数に知られにくいような作品に出たり、
そういうことをあえてやってしまうから、根無し草のようにコロコロ転がっていくわけよ。
その時々の形で万華鏡のように変化していって、それは他人の力だったり、自分の力だったりなんですが。
決めちゃうと、そこで終わってしまうのが怖いのかもしれないね」
  
 
依子さんの独自のスタイルがぼくは好きなんですが、見ててハラハラもするんですね。
 
「うふふ、ゴメンナサイ(笑)」 

 
(笑)こんなに独自のスタイルがあるのに、なんでそこからまっすぐ行かずに、脇道に逸れちゃうのかなって思うことが何度もあって。
それも含めての依子さんの魅力なんですけど。
 
「それが私の不器用さなんですよ(笑)
病気になったことなんかも、これがドラマだったら、『うまい具合に起伏があって墜ちた』って感じだよね。
『子宮会議』でも書いたように、『ちょっと立ち止まれ』と呼び止められたようなところがありますね。
立ち止まるべき時期として神様が私を落としたのかもしれない。

病気になったばかりのときは、『なんでわたしが?』って思ってたけどね。
時々、『病気になったあとのほうが魅力的ですよ』」って言ってくださるかたもいらっしゃるんですよ。
『病気の前よりもイキイキしてますよ』って。
人の目にそう映ってるってことも考えると、ますますもって、やっぱりあの下降が『呼び止められた』んだなぁって思う」
  
 
いまその言葉を聞けてすごくうれしいですよ、ほんと。
獲得したものもないと困るんですよ。ずっとそれを模索してるんだろうな、って思ってきたから・・・(涙ぐむ)
 
「うん。失ったもの、時間、いっぱいありますよ、ほんとに。
5年って、短いような長いような時間だし。
でもそのぶん、なにかを生むことができる人間に少しはなれたんじゃないかなと思う。
病気以前の自分を振り返ると、自発的になにかを始めようと思ったことなんかなかったし。
『子宮会議』を書いたことも、そう。
以前は、人から言われなければ活動しなかった。
リーディング・セッションであちこちに行こうということも。パイティティの活動もそうだよね。
そういうことがパワーとなっているように思いますけどね」
 
 

★ファンに思うこと 

ぼくはですね、この5年で受けた最大のイメージの変化というのは、「あぁ、やっとこの人、ファンのほうを向いてくれた!」という思いなんですよ。
 
「あはは!今までファンがこんなにたくさんいるかどうかわからなかったんだもん!
『洞口依子が好きだ』って声を大にして言える人は、なかなかいないと思う。
なんとなくこっそり、『好きなんだけどさぁ』と言いながら、人から(好きな女優を)聞かれたら、
誰に名前を言ってもすんなりわかる人を挙げたりする。
だけど、『ほんとは好きなんだよね、洞口依子が』って感じじゃないの?
自分の中のスペシャリティーにあるというか」

そのスペシャルな部分の温度がすごく高いんですよ。
じつは、ぼくもそういうこっそりファンだったので、わかります。
自分の中の、他人にさらけ出したくない部分に、依子さんは近いんですよ。
 
「わかるわかる。
久世光彦さんがそれに近いことを書いてくださったことがある。私の大切な思い出なんですけど。
『みんなは、アイドルの誰々が好きとは言えるが、洞口依子が好き、ということは言えない』って。
『本当は好きなくせに、言えない』って」
 
 
たまに会話で名前をなんとなく出したときに、相手が聞きなおしたりすると、もう言わない(笑)。
 
「女性ファンもそうかもね。自分が大事にしている小箱にしまっている、みたいなところがあるでしょ?
『あの人好き〜!!!』って軽い感じじゃないでしょ。『…好きなん…です…』って感じでしょ?」
  
 
依子さんの表現する影の部分を見ていると、自分の影の部分を見せつけられるようなところがあって。
だから、それを他人に言うのが怖いんですよ。鏡のようなところがある。
 
「(深くうなずく)」  
 
でも、この5年でそれは少し変わりましたよね。ライヴでなにかを表現する人だということも意外だったし。  
 
「映画の中か、ドラマの中の人間だったからね、ずっと」  
 
それと、はっきり言って、昔は怖かったですよ!
 
「あはは。『大丈夫かな、あの人?』って感じ?ギラギラした感じ?」  
 
なにを言っても見透かされそうな感じですかねぇ。

「なるほどねぇ。
ふだんの私を知っている友達なんかは、『なんで普段みたいな役をやらないの?』って言いますよ。
でも私は逆に、普段はこうだから、あぁいう役を演じるのがいいじゃん、と思うけどね。
演じきっている!ってとこで見てくれるとうれしいけどね!あはは!」
  


★家族と周囲のサポート 

悪女とか、役柄のこともあるんですけど、僕は依子さんの表現する孤独感を見ていると、自分の孤独をつきつけられる気分になりますね。
依子さんの存在が、自分の中のヒリヒリする部分とつながっているんですよ。
 
「わりと若いうちにどん底を見たり、深く傷ついたり、いろいろあったし、
それは結婚しても、病気になったり、やっぱりいろいろあるわけで、
まして女優って職業は結婚してるから安定するというものでもないし、
もしかしたら、決して満足できないなにかが、私の根底にいつもあるんじゃないかな」

向上心が強いんじゃないでしょうか。
 
「そうかもしれない。ここではないどこかに、いつも行きたいと思ってる。満足できない。
かといって、夫を蔑ろにしているんじゃなくて、夫は戦友なんですよ。
あちこちの戦地に飛んで、還ってきて、報告しあうわけですよ。
働いている業界も近いし、お互いの苦悩もわかる部分が大きいですね。
物を創ってる人間どうしという共通点もあるし。

よく病気のことを紹介されるときに、『支えてくれた夫婦愛』と形容されることが多くて、
ほんとにありがたいことなんだけど、
それだけじゃないよ、女優を支える夫は大変なんだよ、モンスターが家にいるみたいなもんだよ、
って言いたい面もある。
だって、ある日帰ってきたら妻の目つきが変だったりさ、
ある日帰ってきたら妻がどこかの訛りでしゃべってたりさ(笑)。
しかもその妻が女としてのシンボリックな物を失ってダメージを受けてたらさ、
どう対処すればいいのかわかんないよ」

男として考えても、どうすればいいのかわからないと思いますね。
 
「だから彼一人で支えきれないところは、周りの人たちが背負ってくれたりとか。
私は周囲に恵まれましたよ。いろんなところをサポートしてくれた。
私もまた、そんな周囲に飛び込んでいったしね。パイティティをやろう!とか。
その気持ちがあったから、みんな支えてくれたんだと思う」
 
そうですねぇ。その気持ちが見えなかったら支えるのも難しいですもんね。

「そうだよ。だから、彼に『自分から動きなよ』ってことをよく言われて、
この人、何言ってんの?ってわからなかったんだけど、
自分が動き出したときに、周りの人たちがね、
『そういうことをやりたいんだったら、楽しそうだから、一緒にやるよ』とか、
『ちょっと大変そうだから、支えてあげるよ』とか言ってくれて。
自分が動いたからですよね、やっぱり」

『子宮会議』を、もしあの時期に書かなくて、いまの安定した気持ちのときに書いていたら、ちがっていたと思いますか?
 
「かもねぇ。あの時期に書いてよかったと思う。
苦しみの頂点で、ダメだ!ってもがきながら。
いま書いたらもっと柔らかいものになっていたかもしれないね。

『子宮会議』という本は、じつはほかにもいろんな面から語ることができるんですよ。
書いてないこともいっぱいあるし、ぜんぜん違う視点からは、ぜんぜん違うものが見える。
あれはあえて、私と子宮の話、という視点で、私を書いたわけです。
だけど、ちがうことで表現したいものはあるし…そうなると小説になるのかなと思うけど、
あの体験から感じたことっていうのはたくさんあるし。

人間は、苦しいとか悲しいとか、底の底に行くと、いろんなことを感じちゃうし、見ちゃうし、
そういうところで得たものはあるから、もっといろんなことを表現したいなと思います。
ゴツゴツしながら、クルクルまわりながら、のら猫のごとく、したたかに、しなやかに、やるんです(笑)」

『子宮会議』で好きなのは、けっこう笑えるところがあるんですよね。病院のエレベーターに乗ったら、夫婦でボタンの押し合いをするところとか。

「アタシは根がくだらないから!日夜、くだらないことしか考えていないから!
映画なんかでもあるじゃない、悲しい場面でおもしろいこと考えたり。
悲しいとか言いながらも、笑えること考えちゃったり。
神妙にお医者さんの説明を聞きながら、先生のネクタイの柄に目が行ったりとか。
あと、絶えずカット割を考えてしまったりとかね(笑) くだらないことばっかり」


くだらないというか、ユーモアのセンスが独特ですよね。
ブログ読んでても、これ笑える人、どのくらいいるのかな?とか思うことがあります。
それを説明しませんもんね、依子さんは。

「しませ〜ん。うふふ」

この5年で、自分以外の人とのつながりを意識されるようになったみたいですね。

「なりましたねぇ。とくに親とのつながりですねぇ。
この3月という時季のことは、一生忘れないと思う。
自分が生まれて、死にそうになって、いろんな思いがある。
すごく想像するんだよね、生まれたときに、母親はどういう思いだったのかなとか。
両親はどういう感じだったのかなとか」


結婚すると、親のことを考えるじゃないですか。あぁ、こうやって家庭をスタートさせたんだなぁ、って。

「考えるよねぇ。
物のない時代に、つつましく暮らしながら、夫婦一緒で幸せで、そこに子供が生まれて、少しずつ物が増えていって。
『サークル・ゲーム』だよね。不思議です。
最近になって、あの人たちから生まれてきたんだなぁって、思うようになりましたね
若いときには、親のことなんか考えもしなかったしね。早くに自立したこともあるし、鼻っ柱も強い子だったから。」

依子さんは、性格はご自分で男っぽいと思いますか?

「どうかなぁ。男っぽいかもね。最近は男子も『草食系』とか言われてるけど。
最近は、女であることを楽しみたいですね。女の子っぽい、女子校みたいなノリを。
女の子どうし、かわいく、楽しく。
自分が女子校に通ってたんですけど、その頃は女子のつきあいとか、めんどくさいって思ってたのね。
それが今は、女どうしでつるむって楽しい!と思う。
沖縄の旧3月3日に、『浜下り(ハマウリ)』って行事があるんですよ。女の人が白浜に降りておしゃべりするの。
年齢も関係ないんです。老いも若きも。
こないだも沖縄に帰ったときにさ…『かえった』だって! あははは!!」

はは、「帰る」になっちゃいましたか。

「あははは!ごめんごめん。いい行事があるなぁって思いました!
日本では、なるべく他人とぶつからないよう気を配るというところがあるでしょう?
(「男っぽいというより」、)私は、自分のスタイルですぐ他人とぶつかっちゃうの」


★20歳頃の自分を振り返って 


昔はもっとそういうイメージがありましたよ。ほら、あの某漫画評論家のかたに、ゴダールのことで・・・

(注・80年代の後半、ある番組内で、漫画評論家の大家が、『むかしはゴダールとか、暗い映画を好む人たちもいて・・・』といった内容の発言をしたところ、
出演者の一人だった当時20代前半の依子さんが、『ゴダールはファッションですよ!あなた、なにを根拠にゴダールが暗いって決めつけるの?』と噛みついた出来事。
当時、団塊の世代コンプレックスに苛まれていた私は、『こういうことを言ってもいいのか!』と衝撃を受けた)









「あぁ…(笑)
なんでさ、瞬間湯沸かし器みたいにすぐカッとなって、誰彼かまわずケンカ売ってたのかね!
ほんとに、若いころは、いろんなオトナを相手に一人で戦いました。
あはは!バカみたい!猫パンチみたいなのにね!」


映画評でもかなり辛らつなこと書いてましたもんね。

「(笑)20歳そこそこの若い女優がさ、明日だれと一緒に仕事するかもわからないのにさ、
『この映画はおもしろくな〜い』とか平気で書いてたんだもんね!何様のつもりだよ、って。
怖いもの知らずの身の程知らず。知らないってすごいですね。」


もしね、もし20歳頃の自分に会えるとしたら、なにかアドバイスすることってありますか?

「『がんばってね』(笑)ぐらいかな。
言ったって、彼女は聞かないと思うから。うふふ。
がんばってね〜って感じ。」


説教してやりたくないですか?

「あぁもう、かかわりたくな〜い!あははは!
『アイツ、来た来た〜』みたいな感じ」


逆に、当時の依子さんが今の依子さんを見たらどう思うでしょうね?

「そうだねぇ。とりあえず、刃向かえないネーネーだなって感じじゃない?(笑)」

並ばせてみたいですねぇ(笑)。

「やだぁ〜!やめてぇ〜!」

でも、それは、正(ただ)しく大人になったということじゃないでしょうかね。

「誰でもヤンチャな頃はあるしね。大人になってからヤンチャをおぼえるのは危険ですよ。
そういう意味では、段階を経て大人になってきてるかもね」

僕は、自分が18〜9のころにですね、いろいろ想像するわけですよ、洞口依子チャンという女の子についてね(笑) 

「(爆笑)」

でね、「絶対にこの子には、ロマンスグレーの年上のカッコいい彼氏がいるんだよっ」とか、勝手に怒ってたんですよ。

「目に見えない相手に?妄想の世界で怒ってたの?あははは!!! おっかしい〜!
さすがファン代表な感じ〜!あははは!」

そう。「チキショウ!」とか。「俺なんかダメなんだよ!」とかね(笑)
ご自身の小悪魔的なイメージとか、悪女的なイメージというのは、楽しんでいる部分はあったんですか?

「楽しんでなんかいないよ。地ですよ。にじみでてくるものだから。
抑えようがないの。隠しようがない。
ほら、白い清楚なお洋服着てても、反骨魂の血痕がついてるみたいなもんよ。うふふふ」


★気球に乗ってどこまでも 

もうキャリアも25年ですよね。四半世紀ですよ。

「まだ25年、って感じですよ。でも、作品数はそんなに多くないですよ。
代々のマネージャーがすごく考えて育ててくださって、仕事も掛け持ちすぎないよう、
調整してくださったんですよ。
あと、私が不器用な子だったので、一時期に二つ以上の収録を重ねないように。
大事に一本一本の仕事を扱うということを学びましたね。
量産できない個人商店みたいなもんなんで、露出が少ないのが難点ですけど。
そのようなやり方しかできないわけで…(笑)」

去年、スコセッシの作ったストーンズのライヴ映画を観たんですけど、その中で昔のインタビュー・フィルムが出てくるんです。
で、22歳くらいのミック・ジャガーが「あと何年ぐらいストーンズを続けてると思う?」と訊かれて、
「あと2、3年はやってるんじゃないの?」って答えてるんですよ。 彼らはもう45年やってるわけだけど(笑)。
依子さんは、女優を始めたころに、どのくらいやるんだろう?って思ってましたか?

「漠然としてましたね。40になって50になって、なんて想像もできなかったし。
いろんなチャンスがあったかもしれないしね。自分が気づかなかっただけで」


以前、「『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を初めてスクリーンの大画面で観たとき、女優としてやってゆこうと決意した」
とおっしゃいましたが、その後、その決意がくじけそうになったことはありましたか?


「あります、、。
昔のことはともかく、一番はやっぱり病気が大きかったかな。
すべて飲み込まれそうになって、もう終わり、いや終わらせなきゃならない、
そんくらいどん底をみたようなことが5年間の中でありました。
生きるってどんだけつらいんだろうとか、精神的にかなり追いつめられたから」


逆に、転機となった作品はなんですか?今までにない事に開眼したり、喜びを見出したり、
ご自身で大きなステップアップとなった作品を挙げるなら。


「思えば最初の作品(ドレミファ娘)からが転機のような。。
そうですねぇ、色々発見の連続ですからねぇ、なんだろうか…
『マクガフィン』などはそうかもしれませんね。
少ないスタッフでやる現場、それに闘病の最中の現場、
そして、あれではパイティティとして音楽もやったり
インターネットシネマという枠でも、自分が自ら街に出て宣伝したり、
ポスター張ったり、なんでああいうパワーがみなぎったのかは謎だけど、
映画作りとか映画を世の中の広い世界へ旅立たせたいという
妙な熱い気持ちがそうさせたのか、よくわからないけれど、
とにかく、手作りの良さがあった。人のぬくもりがあった。
で、みんなが楽しめた。映画って、出たら自分の仕事はもう終わりみたいな意識しかなかったけれど、
自分でなにか出来るんだってことにもチャレンジできた。
映画作りにルールなんかないんだってことの実感もありました。
 
もちろん、大手配給会社仕切りではなかなか制約があって出来ないだろうし、
それこそ、乗っかっていれば、誰かが自ずと宣伝もしてくれるので、それに乗っかっていればいい。
しかし、そうじゃないやり方が出来たし、しなきゃあの作品はインターネットシネマで流れておしまいだろうなという
懸念もあったり、、ね。

そもそも、映画作りのスタッフ側との垣根があまりなかったことがよかったのかな、『マクガフィン』には。
子宮がないアタシが地球に優しい何かを海で出産するっていう役も、
なんだかとっても勇気をもらったような気がします。

あの渋谷のシネマヴェーラの前でビラを配ったり、演奏したり、
円山町という場所柄、ドキドキなんですけど、
黒沢さんが通りかかったり、果ては、東急本店前まで進出したり
普段の東京の街がまるでバスキングフリーな海外の街のどこかに感じられたんだよね!
しかも最後は黒沢さんと青山さんの対談に忍び込んで、階段に座ってふむふむ聴いてるって、
まるでのら猫集団みたいじゃない!?髭ピ〜ンとか動かして。
なんかみんなかわいかったなぁ。

みんな笑顔だった。みんな。暑いのにみんな楽しそうにしてた。
思い出すと泣けるー。涙そうそうー。うう。
あーなんか映画っていいなー。(と一人感慨耽る)」


手術から5年が過ぎて、どうですか?これからのご自分は。


「これもまた漠然としてますね。演技とはちがったいろんなことも、
草の根的なところも含めて、経験していけたらと思います。
気球に乗ってどこまでも、少しずつ重しを捨てながら上昇するようだといいかも。
Up Up And Awayじゃないけど(笑) 
それで、私が(望遠鏡をのぞく手つきで)こうやって景色を見てるの」
洞口依子さんインタビュアー(同時に)『80日間世界一周』みたいに!」

では、最後に、みなさんにメッセージをお願いします。

「5年を迎えて、洞口依子は、またこれからも日々向上しつづけ、
『好好学習、天天向上
(ハオハオシュエシ、ティェンティェンシァンシャン)
』っていう
文革時代に毛沢東が紅衛兵に掲げた有名なスローガンがありますが、
いっぱい勉強し、日々向上していきたいなと、『やる気なく』思ってます」


あははは!「やる気なく」かぁ。いいなぁ。ありがとうございました!

2010年のインタビュー
2008年のインタビュー→

2007年のインタビュー→
依子さんへのパイティティQ & A→

依子さんも途中参加の「原口智生監督インタビュー
熱くヨーリーを語る「當間早志監督インタビュー


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