〜出演作品から、20本の映画をピックアップ!〜




洞口依子さんの出演作品から、20本の映画をピックアップして新たに試考してみます。

ですが、じつはまだ、なにを取り上げるかは細かく決めていません。
おまけに、2本、映画ではないものも入る予定。
のうえ、6本は1シリーズとして取り扱う予定。

出演作解説のコーナーもあわせてご笑覧くださいませ)
なお、ネタバレ率は非常に高いので、ご注意ください。


『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』

2010年6月12日公開
制作 『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』制作委員会 配給 リトルモア
131分

この映画には、"A Crowd of Three"という英語タイトルがつけられています。 直訳すると「3人の集まり」です。
"Two is company, three's a crowd"(「2人だと仲間、3人になると単なる集まり」)という英語の格言から来ているのでしょう。
まさに、この映画の内容ズバリそのものです。

ケンタとジュンとカヨちゃんの国』という作品については、まず「社会の底辺で生きるケンタとジュンがカヨという女の子とともに逃げる物語」というあらすじを読みました。
大森立嗣監督の『ゲルマニウムの夜』を先に観ていたので、きっと重いテーマをグイグイと引っ張るような馬力を持った作品なのだろうと想像しました。
洞口依子さんは若者たちが逃避行のさなかに出会う大人の1人なのだろう、見ると多部未華子さんの名前もクレジットされていますから、たぶん多部さんのお母さん役で、主人公たちを世話したり、なにがしかのアドバイスかキュウを与えたりする役柄かな、と予想したのです。

近年の洞口さんは若者と向き合う役が多くなっています。
海への扉』『テクニカラー』での母親役はその代表的な例だし、未熟な若者を見守る上司の役柄を演じる『ジュテーム わたしはけもの』や、AKB48グループとの『マジすか学園3』『So long! 』もここに加えていいでしょう。

私は、こうした作品で若い俳優さんたちと共演する洞口さんを見るのが好きです。
ただそれは、俳優のキャリアや人生の先輩でもある洞口さんが彼らを受け止める安心感とは少しちがいます。
若い彼らと一緒に映っている洞口依子さんにスリルをおぼえるのです。
それはなんなのだろうと考えているときに喰らったのが、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』での一撃でした。

この映画で洞口さんが登場している時間は2分間です。 セリフはひとこともありません。
しかし、2009年の6月29日、石川県の住宅地で撮影されたその場面は、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の中でも鮮烈な印象を残すものになりました。

カヨちゃんを置き去りにして網走への逃避行を続けるケンタとジュンは、かつてケンタと同じ施設で育った洋輔の家に身を寄せます。
洋輔は裕福な夫婦に養子として引き取られたのですが、親が事業に失敗し、しかも「親に目をつぶされた」らしく、左目を眼帯で覆っています。
この事情は旧知の間がらにある洋輔とケンタには了承ずみですが、洋輔と初対面のジュンは、それ以上を詮索することができません。
3人になると、仲間どうしとはいかないわけです。

ケンタとジュンは再び北に向かって旅立ちます。 そのとき、小雨の住宅街の通りを一人の女が横切る。
これが洋輔の縁組先の母、洞口依子さんです。 
あいさつも返さない彼女にいらだち、ケンタは喧嘩腰で向かいますが、彼女は無表情に押し黙ったまんま。
時間のムダと悟ったのか、いったん彼女を放し、バイクで追い抜きざまに「目つぶしババァ!」と罵りを浴びせて去っていく2人。
その場で哀しいような、苦いような、そしてどこか不敵でもある複雑な微笑を唇のはしに浮かべる洋輔の母。

過去になにが起きたのか、なんでそうなったのかは詳らかにされず、このエピソードはここで終わります。
理不尽さと怒りと驚きが整理されずに放り出されたまんま、洞口さんのビニール傘とジーンズとスニーカー(映画での洞口依子さんにはあまり見ない衣装)、
そして肩の寂しさだけが目に焼きつきます。

哀しいと言うには同情の余地もなく、やりきれないと言おうか、単純には形容しがたい感情に襲われます。 
いずれにせよ、前述の私の予想にあったような、「主人公たちを世話したり、なにがしかのアドバイスかキュウを与えたりする」大人ではまったくありません。

この映画には、世間からあぶれてしまったり、自らドロップアウトしたような大人が何人か登場します。
そうした大人の多くに、ケンタとジュンはまだどうにか向き合えますが、洞口さんの演じるこの母親と彼らとのコミュニケーションは閉じられています。
しかもその拒絶は、安定した生活を送る大人からの蔑む目線ではないわけです。 

彼女自身が、世間に対して申し開きのできないことをやらかしてしまった身であり、もしかしたら、少なくとも彼女のほうからは、彼らをわかる部分だってあるかもしれない。
松田翔太さんと高良健吾さんと洞口依子さんが並ぶと、そこには、年齢にかかわらない、もっと根源的な不安感が共鳴しているようにも思えます。
だからよけいに、ケンタとジュンと洋輔の母親という「3人」の場面の救いのない相容れなさが、作品全体から際立っています。

登場した瞬間にごくありふれた住宅地の風景から浮いてしまう彼女の寄る辺ない感じ、他者とのつながりをシャットアウトした感じ。
それらは、洞口依子さんならではの、コミュニティの中で放つ異質な存在感によって、セリフを排しても刺さるように伝わります。
この疎外感はケンタとジュンにも通じるところがあるはずですが、彼女の無表情と複雑な含み笑いは、それと簡単に結びつかないのです。

あの笑みは、出口を求めてもがいている若者への、その結果を身を持って予測できる側からの皮肉の視線でしょうか。
あるいは、まだ何かを突き破ることができると思いこむ若気の青さも行動力もなく、日常に自分をくくりつけておくしかないことへの自嘲でしょうか。

『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』は、若い俳優さんたちと洞口依子さんの、companyにもcrowdにもなりうる、スリリングな距離感を味わえる作品です。
登場時間は短いですが、ケンタとジュンの爆発とは異なった、深くくすんだ「否」を作品の底に横たえるような、この映画の洞口さんをぜひお見逃しなく! 


出演
松田翔太 高良健吾 安藤サクラ 宮崎将
柄本佑 洞口依子 多部未華子 美保純
山本政志 新井浩文 小林薫 柄本明

監督・脚本 大森立嗣
企画 菊地美世志 田中正 孫家邦
撮影 大塚亮
編集 普嶋信一
音楽 大友良英
美術 杉本亮
衣装 伊賀大介
 


『ウクレレ PAITITI THE MOVIE』


2009年11月13日『洞口依子映画祭』でプレミアム上映
2010年9月18日一般公開
製作 - ジェマティカ・レコーズ 中洲プロ
107分

この映画をDVDで買った人には、鑑賞に入る前にまずパッケージの表紙をゆっくり眺めることをおすすめしたい。
レンタルで見るという人は、一度お店の棚の前でそれを確かめてから借りるといいと思う。
太陽の光がやわらかく差し込む碧い海を、ストライプの水着姿の女性が泳いでいる写真。
今いる場所よりさらに下へ、颯爽と潜ってゆく姿はかっこういいのだけど、頬っぺたを酸素でいっぱいに膨らませ、前に
のばした手でわっしとウクレレを掴んでいるのが、
どことなくユーモラスでもある。
人魚でもなく、そして牡蠣採りの海女でもない、これが洞口依子、とすぐに気づく人は決して多くはないと思う。
けれど、波に揺れるその前髪をよく見れば、たしかに、彼女の愛猫の髪型とまったく同じパックリ真ん中分け!

洞口依子さんの34歳を祝うパーティの席で、サザンオールスターズの関口和之氏から贈られた1本のウクレレ。そこから物語は始まる。
それだけでも、なんだかうっとりしてしまうほどのお話であるのだが、彼女の友人である映像作家の石田英範氏がそこにいて、
もともとジミー・ペイジにいかれたことのあるギター小僧でもあった彼が、オープ
ンC6というツェッペリンのサード・アルバムでよく使われるチューニングで鳴らせる
この小さな弦楽器を手にしてどんな気分だったのかを想像するのも楽しい。
しかも、その場には映画女優・洞口依子の生みの親ともいえる黒沢清監督も同席していて、映画の中ではその時の回想を語るだなんて、
世界中の「シネフィル」を仰天させるだろう。

この、導師によって授けられた1本のウクレレがきっかけとなり、洞口・石田の両氏のコムビで「パイティティ」を結成。
やがて仲間を集ってバンドとなった一行が、渋谷の街を、那覇の空の下を、極上の音楽を鳴らしながら旅をする


素敵すぎる。
なんだろう、これは。子供の頃に夢中になって読んだ、アーサー王と円卓の騎士の物語を思い出す。
私はこの映画を「ウクレレ・サーガ」と呼ぶことになんのためらいも感じない。
石田画伯を筆頭に、パイティティのメンバーの佇まいは、ジュール・ヴェルヌの小説に登場する奇矯でチャーミングで途方もない夢想家の主人公たちみたいだ。

この映画を撮ったのは原口智生監督。
原口氏は、依子さんの主演した『ミカドロイド』の監督でもあり、なんといっても日本が世界に誇る特殊造形の第一人者だ。
そして編集/監督補の本田吉孝
氏ら、原口監督の中州プロの全面的なバックアップによって作られている。
『ミカドロイド』についてはこのページの少し下のほうで私の思いを書いてあるとおりなのだが、裏通りの小さなヘンテコなお店でしか見つけられないような、
独特のファンタジーを持った映画だった。

そして、この『ウクレレ PAITITI THE MOVIE』。
ぶっちゃけて言ってしまおう。この映画でのパイティティというバンドは、決してカッコよさだけで描かれてはいない。
タイトル・バックに選ばれた渋谷でのライヴの模様。ハプニングというか、はっきりとアクシデントである。
バンドをやった経験のある人なら、誰でも一度は身に覚えがあるだろう、「あちゃ〜」とつぶやいてしま
う出来事。
これがいちばんアタマにある。はじめて見た時はさすがに驚いた。

しかし、映画が進むうちにゆっくりと確実に伝わってくる。
原口監督にとって、パイティティのこんな姿は、決して隠しだてす
るようなものではないのだ。
もっと言うと、原口監督の感じるパイティティの「ステキさ」(原口氏はそんな表現を用いている)は、こうした「あちゃ〜」な部分もあってのものなのだ。
もちろん、すべてのバンドに、ミュージシャンに、それがあてはまるのではない。

1本のウクレレが、最初はおとぎばなしの種みたいな物としてあった。そこまでは夢物語の領域だったかもしれない。
しかし、その夢を見る力、夢の強度に、確信が、本人たちでさえも意識しなかったほ
どどささやかに、でもたしかに存在していた。
そしてそれをキープし続ける才能と持久力、音楽とは別のフィールドで培い磨き上げてきた表現への貪欲さがなによりもあった。
そんな彼らに、ジャンルや楽器の種類を越えて引き寄せられるかのように人が集う。
その磁場で、カッコ悪いこととカッコいいことの磁性がマーブルになってゆくさまは、
見る者の想像力を刺激してやまない。

そう、この映画はドキュメンタリーの形式をとっており、その面でもじつに丁寧に作られているが、本質では、いたるところで観客があれこれ想像力を働かせながら参加すると、
より多くの詩情を感じ取れる作品でも
ある。
いや、もう、今日は臆さずに言うことにする。これは詩なのだ。
原口監督がパイティティというバンドを撮った映画というよりも、監督とそのチームとパイティティ、そしてインタビューやらなんやらで関わった
すべての人たちによる、
「ウクレレ詩」なのだと、私は思っている。

パイティティの師匠でもある関口氏がつぶやく。「ウクレレという楽器は、人生をドロップアウトした人に優しい響きがある」。これも詩だ。
そしてその撮影現場の壁
に飾ってある『ダブル・ファンタジー』も、また詩。
ギターを手にした若き日の石田画伯の写真も、依子さんのウクレレ・ケースの中でまどろむ島猫の姿も、ミニチュアのプラネタリウムやロープウェイも、
冒頭のハプニン
グも、那覇の街を演奏しながら練り歩くパイティティも、それを囲むかの地の人たちの素晴らしい笑顔も、
すべてがこの映画でしか味わえないファンタジーであり、詩なのだ。

「洞口依子さんへの鍵」としても一級の作品であることは間違いないけれど、彼女をよく知らない人も、音楽に詳しくないという人にも見てほしい。
大きく挫折してしまった人や、ドツボにはまってずり落ちちゃった気がする人は、この映画の詩を吸い込んでみてほしい。
いっぱいいろいろな事を想像し、時には夢想して味わって見てほしい。
その夢想がとんでもなく遠くへ飛んでいけばいくほど、この映画は近づいてくる。

そうして、できれば、見終わったあとでもう一度パッケージの表紙をながめてみてはどうだろう。
依子さんがその手にしっかり握りしめたウクレレに、あなたはなにを見るだろうか?


企画・構成・監督 - 原口智生
編集・監督補 - 本田吉孝
CGI監督 - 早川哲司
撮影 - 高橋義仁
照明 - 田村文彦
美術 - 磯見俊裕
音楽 - 石田英範
特殊メイク - 森田誠

出演 洞口依子 石田英範  
伊藤薫 武富良實 ファルコン 坂出雅海 yoshio & 深華 ブラハ 倉井夏樹 クリストファー・ハーディー 中西俊博
黒沢清 関口和之 當間早志 巻上公一 キャスっ仔


『ニンゲン合格



1999年1月23日封切
製作 大映 配給 松竹
109分

「いきなりシーンが変わって、誰かがキャバレーに行けば、そこでは舞台があって必ず歌手が歌っていたわけですね」

黒沢清監督のこのコメントは、金井美恵子氏との対談に載っていたもの。
歌は映画の娯楽的要素の一つなのでどんどんあっていい、たとえば昔の歌謡映画には、という流れでの発言です。
『リュミエール』1985年冬号、公開されたばかりだった『ドレミファ娘の血は騒ぐ』をめぐっての対談でした。
しかしながら洞口依子ファンにとって、この言葉はどうしても『ニンゲン合格』での彼女と結びつきます。

交通事故で中学生の時から意識不明で眠り続けていた吉井豊が、十年後に目覚める。
久しぶりに帰った我が家は、家族が離散したあと。
中学時代の友人は、携帯電話などという見慣れないツールを使って会話している。
昔、家族で飼っていたように、小さな馬のいる小さな牧場を作ろうとする豊。

筋書だけ取り出してみれば、この『ニンゲン合格』には、家族や家庭、現在を生きるということなど、
普遍的な共感を喚びそうな要素がいくつもあります。
しかしそうは易々と卸すはずがないのが黒沢映画のクセのあるところであり、クセになってしまうところ。

洞口依子さんが演じるのは歌手志望の女の子、ミキ。
ひょんなことから、なんとなく彼女と知り合った豊は彼女の歌うクラブを訪れ、
先に黒沢監督の言葉に引いたような「歌手が歌っている」場面が始まるわけですが、
このミキと豊の関係、距離はおもしろいです。

中学生から急に20代の青年にタイムスリップしたような男の物語ですから、性と恋愛の話を避けると、仮にお伽話にしても弱い。
前者は西島秀俊という俳優の茫洋とした佇まいの利いた省略で通過します。
となると後者には当然このミキが当て嵌まりそうなものなのだけど。

知り合った二人が土手に腰掛けて言葉をかわすその空気の不思議な淡さ。
ああ、西島x洞口という、映画界でも得難い個性の二人が会話するシーンには、
こんなにフワフワした、微妙にくすぐったいような雰囲気が醸し出されるのかという嬉しさに、画面を見つめる顔も綻ぶ名場面です。

とくにこのシーンの頭で、依子さんの姿がほとんど映っていないので、二人の男女に交差する愁波を感じさせない。
彼女の持っている楽器のケースを指して、「これ、バイオリン?」
「ううん、ウクレレ」と彼女が答えたところで初めてアップで依子さんを映し、ウクレレを爪弾く彼女をとらえるこの呼吸の麗しさ。
この瞬間、『ニンゲン合格』という映画は、「洞口依子がウクレレを弾く姿」の魅力でいっぱいに充たされます。
何度も何度もこの部分を見返してみて、大袈裟に思われるかもしれないけれど、ここには映画の自由とマジックの輝きと、
それを実現する彼女のシャーマン的な力を感じます。

「わたし、歌手になるの。ニューヨークで」ミキの「歌手」という言葉にも「ニューヨーク」という言葉にも、
豊が否応なしに向き合わされている現実での選択の臭いはなく、この娘はちょっと現実から乖離しすぎなんじゃないかとさえ思わせるほど、
そのセリフを言う依子さんには地に足が着かない危うさがあって、それが痛々しさではなく、
くすぐったいような薄い甘さを味あわせるのが、この作品での彼女の魅力ですね。

そして彼女が歌う場面。
フルバンドを随えて、この映画のオリジナル曲「月影のレヴュウ」 をワンカットで歌いきります。
このシーンは洞口依子ショウです。
この映画での彼女が他の黒沢作品の時とは違った印象を与えるのは、登場のしかたがコミカルであること、
ウクレレという楽器に和みを感じさせること、そして歌唱シーンでの(クラブの客に向けた)笑顔があるからでしょう。

なによりも、このシーンでは彼女の振りつけ。
あれは依子さんのアドリブなのか、いくらか演出で決められていたのか、私は前者だと思いたい。
いったんステージのほうに戻り、帽子を片手に歩いてくるあたりの一挙手一投足には、音楽を本気で好きな人なればこそのセンスを感じます。

思えば、彼女の魅力を語ることには、音楽を言葉で語るのに似た難しさがあるのだけど、
特に『ニンゲン合格』での依子さんは音楽的。
それは、歌唱シーンがあるということ以上に、彼女の存在自体が音楽的なのかもしれません。

このシーンで彼女の出番は終わります。
彼女は豊にも観客にもそれ以上近づくことはなく、まるで最初からいなかったかのように物語は進展していきます。
そんなところも、やって来て去ってゆく音楽のようだし、真昼に見た夢のようでもあります。
デイドリームの淡いまどろみと温(ぬく)い心地もあれば、デイドリームなればこその非日常的なあやうさと危なさ、
その両方が、ミキを演じる洞口依子さんにはあります。
最後のポストカードで彼女もまた「確実に存在した」ことがわかって、「月影のレヴュウ」が流れるときに、
相変わらずそれ以上近づいてこない彼女の歌声が、またしてもくすぐったく響いて顔をほころばせます。


監督 脚本 黒沢清
プロデューサー 下田淳行 藤田滋生
撮影 林淳一郎
音楽 ゲイリー芦屋

出演 西島秀俊 役所広司 
菅田俊 りりィ 麻生久美子 哀川翔 
洞口依子 大杉漣 諏訪太朗 鈴木ヒロミツ


『芸術家の食卓
と『陰翳礼賛』

洞口依子という女優を動物で何に譬えられるというと、やはり猫ということになるでしょうし、
私もそんなような事をネタに記事を書いたことがあります。
しかし、本当に彼女を猫にしてしまった演出家は、後にも先にもこの人以外にいないでしょう。

宮田吉雄。
TBSで久世光彦氏のもと、『寺内貫太郎一家』や『ムー一族』など、タイトルを聞いただけで、
一家に一台しかなかったテレビを家族で見ていたあの水曜の夜がよみがえるような番組の演出陣に参加、
退社後には久世さんが設立したKANOXへ移って、2004年10月に66歳で亡くなられた演出家/プロデューサー。

と、訳知り顔で書いていますが、じつは私も宮田さんについては、これに加えてほんの少しの逸話を耳にはさんだ程度です。

最近出版された小林竜雄さんの『久世光彦 vs 向田邦子』(朝日新書)にこの不世出の鬼才についての記述があり、そこには、

久世は後輩の宮田を「狂気の教養人」で「桁外れの奇人」と大袈裟に賞賛し、その異才ぶりを愛していた
                                                              (上掲書 p.133より)
と、簡潔で興味をかき立たてられる一文が織り込まれています。

私が宮田さんに惹かれた端緒も、これに似た言葉のポートレイトからでした。
洞口依子さんは『芸術家の食卓』『陰翳礼讃』『埋葬された愛』という3作の宮田作品に出演されています。
また、1987年、篠田正浩監督が進行役を務められたTBSの旅/情報番組『日本が知りたい』では、
依子さんと鈴木ヒロミツさんが小豆島を案内した回の演出が宮田さんで、これを知ったときは、本当に吃驚しました。

それはリメイク版『二十四の瞳』の公開にあわせたものだったのですが、島の観光スポットを紹介するところどころに、
情報番組では普通見られないような、なんとも不可思議な趣が漂うものだったのです。
ヒロミツさんが一人で道を歩いている姿からカメラが引くと、依子さんがぼんやりと腰かけているのが映っていたりする。
2人は同じ番組の同じ回のレポーターなのだけど、お互いの存在には気づかない。
だからナンだと言われると返答に困るのですが、そこに洞口依子がいることが醸しだす異化効果は無視できないもので、
どんなに風光明媚な観光スポットよりもその場所が頭に焼き付いて離れなくなる。
この種の番組の趣旨に沿ったものなのかどうか、そのへんは怪しく思えてくるんですが、
私のようなヒネた視聴者は、「なんか面白いんじゃないか?この土地」なんて、なんとも妙な具合に好奇心をそそられたりする。
それが宮田吉雄さんの演出だったのでした。

芸術家の食卓』と『陰翳礼賛』は、1989年と1990年、まだ手探りの状況だったと伝え聞く「HDTV」(ハイヴィジョン)で
TBSが製作した作品です。
それぞれ24分と52分の短いもの。 しかしながら、観ると圧倒されます。
どちらも生活スタイルの細部に徹底してこだわった視点で、奔放にして才気旱魃たるヴィジョンが
これ以上ないくらいに凝縮した濃密さで描かれます。
写真家の西川治氏が自分の求める「食」を追求する姿をセミ・ドキュメンタリーふうに追った『芸術家の食卓』、
谷崎をベースにした筋立てに、日本家屋に潜む死とエロティシズムの陰翳をデュ・プレのエルガーが匂い立たせる『陰翳礼賛』、

どちらにも、洞口依子さんの魅力が輝いて在ります。 それが作品に奇妙なエレガンスをもたらしています。
そこに洞口依子が映る、それがどういうことなのか、宮田さんは知り抜いていたのだろうし、
そのうえでなお予想できないものがあったからこそ、こんなイメージの奔流のなかに彼女を放り込んだのだと想像しています。

まずめったに観る機会のない2作ですが、TBSメディア総合研究所のご厚意により、「洞口依子映画祭」で劇場(!)公開
させていただくことになりました。
貴重という言葉だけでは言い尽くせない価値のある上映です。

もっと宮田吉雄を!


『芸術家の食卓』(1989 TBS)

プロデューサー 前川英樹
演出 宮田吉雄
撮影 安藤紘平 浜田泰生
美術 宮沢利昭

出演
西川治 洞口依子
24分

『陰翳礼賛』(1990 TBS)

プロデューサー 前川英樹
演出 宮田吉雄
脚本 原田菜緒子
撮影 浜田泰生
美術 飯田稔
原作 谷崎潤一郎

出演
長谷川初範 眞行寺君枝
洞口依子 不破万作
石堂淑朗 成田繁範

52分

(お名前に誤表記がある場合は、恐れ入りますが、
yorikofans@yahoo.co.jpまでご連絡ください。)

ドレミファ娘の血は騒ぐ』


1985年11月8日封切
製作 EPIC・ソニー ディレクターズ・カンパニー 
80分

洞口依子登場。
洞口依子エクスペリエンス。 

『ドレミファ娘の血は騒ぐ』について、彼女のファンとして何かを言おうとすると、
結局はそのような文句でしか始まらず、そのような文句でしか終われません。

初めてこの映画のポスターを見たとき、
見たこともない女の子が映画のポスターにデカデカと描かれていて、
『家族ゲーム』や『細雪』や『お葬式』で有名な人が映っていて(高校生の私にとって、これが実感できる限度でありました)、
ワケのわからない、だけど何度も口に出して読みたくなるようなタイトルが、真っ赤に飾られて躍っていて、
挑発されるような、見限られるような、けれど底意の何かと共振しあえるような、
いったいこれはなんなんだと心が騒ぐのを抑えきれませんでした。

ドレミファ娘の血は騒ぐ、ドレミファ娘の血は騒ぐ・・・この子が「ドレミファ娘」とやらなのか?
なんだ、「ドレミファムスメノチワサワグ」って?
自分に関係があるような、端っからまったくないような、だけど文字の並びを見ているだけで、やけに痛快に思えてくる。
だから手を伸ばしてみたいのだけど、取り付く島もないというか、やがてそんな想像はいつのまにかタイトルからこの子へと戻ってしまう。
そして、それとほぼ同じことが、時間を置いてようやく観ることができた映画でも起きたのです。

1984年の5月8日から5月18日までの11日間、1000万円の予算で撮影された映画です。
洞口依子さんはこのデビュー作の現場のことを、「本当に心地良い時間が流れていました」と、
溢れんばかりの思いがとても美しい『ユリイカ』誌(2003年7月 黒沢清特集号)でのインタビューで語っています(p.103)。
しかしこの映画はそこから先、公開までのあいだに多難な道を経ることになります。

当初『女子大生恥ずかしゼミナール』という成人映画として制作されていたこの作品は、
「難解である」「いやらしさが足りない」との会社からの意見により、お蔵入りになる寸前までいきました
(本当はもう少し込み入った事情があったようですが、『黒沢清の映画術』新潮社に詳しいのでそちらをぜひ)。
これをディレクターズ・カンパニーと当時の依子さんの事務所が協同で買取り、成人指定を外すために幾シーンかをカット、
短縮された尺を20分の追加撮影により80分に仕上げて完成したのが『ドレミファ娘の血は騒ぐ』です。

前掲書の監督のインタビューによると、改変される前の『女子大生恥ずかしゼミナール』は、本来ポルノとして「真っ当なもの」(p.94)
だったそうで、ビデオで追加撮影された箇所がお蔵入りの判断材料となったのではないのは確かです。
などと書いている私も、初見の際には、あのビデオ撮りも当初からの演出だと思いこんでいたのですが。

これは昔からの疑問なのですが、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』というタイトルは、いつどの時点で付けられたのでしょう。
現在もピンク映画などでは、DVDリリース時などに劇場公開時と全くちがうタイトルがつけられることはよくありますが、
『ドレミファ娘』の場合は、別の作品として生まれ変わったものに対して新たに名づけられています。
作品を買い戻して一般公開に向けて追加撮影を始めるとなった時点でタイトルを変えたのか、
もしくは追加撮影も終えた時点で、『ドレミファ娘』となったのか。
つまり、あの追加したシーン〜特に最後の戦闘シーンを撮るとき、スタッフとキャストの頭には、すでにそのタイトルがあったのか。
それとも出来上がったものを、監督が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と新しく命名したのか。

なぜこんなことに興味があるかというと、シロウト考えかもしれませんが、
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』というタイトルは、言葉は、非常に刺激的なものだと思うのです。
知的に屈折したユーモアのセンスが感じられて、なおかつ掴みどころがない。 はぐらかされる愉しみが味わえる。
曖昧でありながら挑戦的な匂いもします。
挫折と苦渋を経てようやく公開されるとなった作品にシーンを撮り足すとき、こんな秀逸なタイトルが冠せられていると、
スタッフ、キャストのモチベーションは大いに影響されるのではないでしょうか。
この作品のこととなると、私もついつい元の『女子大生恥ずかしゼミナール』に思いを馳せてしまいがちだったのですが、
現在はむしろ、作品が生まれ変わってゆく段階での関係者の気持ちがどうだったのか、私はそのことに興味があります。

けれど、この映画がどんな背景を秘めたものであったにせよ、洞口依子さんの存在感は全編を通じてピタリと焦点が揺るぎません。
『女子大生恥ずかしゼミナール』として撮られたあの「とうとう来ました、吉岡さん」のオープニングでの彼女と、
追加撮影されたあのエンディング、白い衣装(依子さんの自前)で機関銃を片手に「ブラームスの子守歌」歌う彼女のどちらにも、
または微笑みにもふくれっ面にも、一糸まとわぬ裸にもピンクのセーターにも、スキップする姿にも気絶して自転車で運ばれる姿にも、
あらゆる桎梏や纏足に気だるくも抵抗する精神が息づいていて、それが可愛さとなって輝き、エロティックにきらめき、
つかまえたと思うとすり抜けていってしまうその光は、鮮やかで痛快です。 この映画そのものです。

この映画を観るたびに、何度でも洞口依子登場を体験できます。
その都度、観る人にとって、彼女は新しく登場するのです。

洞口依子登場。 
洞口依子エクスペリエンス。


(この作品に関する資料などは、
「ドレミファ娘の血は騒ぐ」の資料本をお読みください。)

プロデューサー 荒井勝則 山本文夫   
監督 黒沢清 
脚本 黒沢清 万田邦敏
助監督 万田邦敏  
音楽 東京タワーズ 沢口晴美 

出演
洞口依子  伊丹十三  加藤賢崇  麻生うさぎ 
暉峻創三  岸野萌圓 
勝野宏  久保田祥子  渡辺純子  新田努  今野詩織  神藤光裕 立原由美 
山路みき  可知亮  摘木満江  小中和哉 
林珠実  篠崎誠  角田亮  高橋健司  岩岡禎尚 
清水俊行  笠原幸一  浅野秀二

ミカドロイド』


1991年11月8日ビデオ発売
製作 東宝
円谷映像
東北新社
配給 東宝
76分

80年代の後半から90年代、ビデオ店の棚を賑わせていたのが、劇場公開を前提としない「オリジナルビデオ」(OV)のタイトルです。
まず東映の「Vシネマ」(その後、このカテゴリーの代名詞的名称ともなった)が成功し、これを追うように各社がマーケットに参入。
東宝が「東宝シネパック」と銘打ってコケラ落としに制作されたのが、この『ミカドロイド』であります。
監督は、日本の特殊メーキャップの第一人者、原口智生氏。

この作品での洞口依子さんについては、当サイトで原口監督にインタビューをさせていただいたことがあります(
こちら)。
また、2002年発売のDVDには原口監督と樋口真嗣特技監督との対談がオーディオコメンタリーで収録されており、
この2つを基に見ていくと、いろいろと興味深いことがわかります。

もともとこの作品は『ミカドゾンビ』というホラー作品として発案されたものであったのですが、
89年の「埼玉幼女誘拐殺人事件」の余波として起こったホラー/スプラッタ自粛のあおりを受けた結果、現行のアクションものへと変更されたそうです。
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を見ていた原口監督が洞口依子さんの出演を熱望されて、旧知の黒沢清監督(本作にもカメオ出演)を通じてそれが実現。
黒沢監督は、この後に『勝手にしやがれ!!』シリーズほかOVの傑作を撮り、同シリーズでは依子さんが出色のキャラクター羽田由美子を演じ続けました。

私が『ミカドロイド』のことを知ったのは、91年の『キネマ旬報』10月下旬号に掲載された依子さんのインタビューで、
ネットがなかった当時には、雑誌が映画全般についての貴重な情報源でしたし、OVについての情報となるとじつに乏しいかぎりでした。
ところが、この『洞口日和』を始めて、何人かのかたとやり取りをするうち、『ミカドロイド』が自分が思った以上に「語られている」作品であると気づいたのです。

一人は、ミリタリーマニアのかたでした。
『ミカドロイド』は旧日本軍が極秘
裡に開発しながら中止となった人造人間「ジンラ號」が、バブル末期の渋谷のディスコ地下で甦り、
駐車場で殺戮を繰り返したのち、閉じ込められた1組の男女を追い回す、というストーリーです。
その方面に疎い私には到底わからないような、ミリタリー系のディテイルを、私はそのかたから教えていただきました。
あのジンラ號のズングリムックリした外見も、かつて実在した空挺部隊の外装に通ずるものがある(youtubeで確認しました)とか、
思いがけないところで知りうることができました。

次に別の銃器マニアのかた。
このかたには、ジンラ號の装着する武器類(日本刀も含む)が、史実に則りながら独創性の高いもので、かつ低予算で造るには難易度の高いものある、
と教えていただきました。
また、リリース時に銃器/ミリタリーの専門同人誌でこの作品を取材した記事があったなんてことも、私はまったく知りませんでした。

それから、特撮マニアのかた。
CGなどのポストプロダクションに頼らずに、いかにアイデアとセンスと技術で、(これまた)低予算で敢行された現場であるか、
あまりにお詳しいのでスタッフのかたかと思いこみましたが、そうではないようです。
マーちゃんという役者さんが、ミニラのスーツアクターのかただと教えていただいたのも、原口さんの特殊メーキャップの実例を教えていただいたのもこのかたです。 

そして、黒沢清監督マニアのかた。
外国のかたでして、「クロサワが出てるんだよ!」とレクチャーされましたが、さすがにそれは知っていました(笑) でも、うれしかったです。

この作品には、その道のマニアたちが思わず「語りたくなる」何かがあるように思えるのです。
潜在的にあるフリークっぽさを刺激してやまないというか、日常をついつい逸脱して何事かにのめりこんでしまう人間には他人事とは思えないところがある。
他人の鏡のどこかに写ってる自分を見つけてしまう。 その鏡をさらにぐっと覗き込んでしまう。
自分と同じではないんだけど、自分もこの人の鏡に写っちゃうんだと不思議に納得させる。

「スクリームクイーン」(SQ)という言葉がありまして、たしか戦前の『キングコング』のフェイ・レイくらいが始まりなのかな、
ホラー映画などで悲鳴をあげる演技で作品を輝かせている女優のことですが、『ミカドロイド』の依子さんもその殿堂入りです。

ミカドロイドに遭遇するまでの彼女は、ディスコで不機嫌な表情を浮かべて座っています。
バブル期の街の空虚な盛り上がりの中で倦怠感を漂わせる女。 
それがアンニュイに流しっぱなしではなく、反抗的な肝の太さが窺えるのが彼女ならでは。 
どこにも流れ着かない感情があって、それが彼女を周囲から際立たせるし、自身をいらだたせもする。

その彼女が、ミカドロイドに追われることで緊迫した状況の中に放り込まれる。
地下壕に足を踏み入れた途端に、スーツの色も白から灰色に変わる(いちばんショッキングな場面かもしれない)。
一緒に逃げる男もさして頼りにならない。 何かを仕掛けて逆襲に転じれそうな場所がいくつかあるけど、そこも逃げて通り過ぎる。

何度か登場する彼女の顔のアップが印象に残ります。
目を見開いてジンラ號の姿におびえる表情ですが、これが直反応の恐怖というより、どこか霞みがかったような曖昧さを感じさせる視線です。
すぐ足元まで恐怖が迫ってきているときに、まだどこか茫然と心ここにあらず。
そんな洞口依子さんの放心エッセンスがここに光っていると思います。 彼女のこういう魅力は、できれば映画館のスクリーンで味わってみたい。
彼女が最後の最後になってようやく(しかしながら飽くまで偶然に)反撃に転じた直後、
爆風の後尾がゆっくりとゆっくりと吹きつけてくるなかでジンラ號を見つめるその目。 
勝利の喜びや逃げ切った安堵とは別の、もっとセクシュアルな高揚と虚脱に似た解放感をも伝えるこの表情が素晴らしいと思います。

さまざまなフリークたちの創る思いが、見る思いが、渦巻いて惹きつける、マニア受難の89年から始まった「地獄の逃避行」’91です。
おそらく依子さん自身が、この濃厚に思い入れの溢れる「場」とごく自然に反応したのではないでしょうか。

それぞれが、「『ミカドロイド』は〜の映画です!」と言ってしまっていいでしょう。

では、私も。
『ミカドロイド』は、洞口依子がおびえ、逃げ、泣き叫ぶ映画です!


(勁文社のムック『幻想世界の美少女たち -円谷映像作品集』には、見開き2ページで『ミカドロイド』の洞口依子さんを論じた記事があります。)

監督・原案:原口智生
脚本:原口智生、武上純希
特技監督:樋口真嗣
音楽:川井憲次
ガンエフェクト:BIGSHOT
監修:実相寺昭雄

出演
洞口依子  吉田友紀  渥美博 
マーちゃん 伊武雅刀  速見健二  毒蝮三太夫 光益公映
黒沢清    林海象   手塚真    
破李拳竜(ジンラ號)
  

『君は裸足の神を見たか』


1986年4月26日封切
製作 ATG 日本映画学校 
配給 ATG 
100分 (未DVD化)


一匹の猫だから、うれしい
一匹の猫だから、かなしい
彼女も、たった一人だから、うれしい
たった一人だから、かなしい
(劇中の詩より)


日本映画学校の校長だった今村昌平監督が、在校生の西村宣之氏の脚本(原題『ふたつの輪』)を気に入り、
卒業生の金秀吉氏の監督で映画化となった作品です。
西村氏は当時20歳、金氏は24歳とのことで、これは当時の邦画界でもかなり若い年齢であったと記憶します。
また、出川哲朗氏や入江雅人氏ら、同校が「横浜放送映画専門学院」だった頃の生徒さんも出演されていて、
出川氏にいたっては「制作進行」としてもクレジットされています。
物語の舞台は当初の脚本にあった秋田の大曲から、今村監督が『ええじゃないか』でロケに訪れた同県角館に変更し、
スタッフ、キャストはかの地の青少年センターに陣取って、85年の夏と冬にロケが敢行されました。

私が初めて見たのは86年のゴールデンウィーク、梅田の喧騒の真っ只中にある三番街シネマ2でした。
洞口依子さんが目当てで、いそいそと京都から駆けつけたのだけど、
窓口でチケットを求める際には、「え、ATGの映画を観に来たんですよ」、
席に座って場内が暗くなるまでは、「い、今村昌平プロデュースを観に来たんだもんね」
と言いたげな顔つきで、誰に窺われるはずもない詮索に気をまわしつつ、映画青年面して上映を待っていました。
ホント、素直じゃなかったっす。

ちなみに、大阪で『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が公開されたのが、これにひと月先立つ3月下旬のこと。
しかも私は18歳でした。 生意気なアイデアで頭がパンパンだったのです。

今ではこの作品をいとおしいと思う私ですが、当時は重い物語展開に惹きつけられながらも、
そこに描かれる若者像には戸惑いをおぼえました。
地元のスーパーでもあまり見かけなくなったような地味な高校生たちの物語。
ケレン味や衒いなく、時にストレートすぎるくらいに真っ直ぐに描かれているのも、あの時代には浮いていたように思えます。

いや、ホント言うとそんなことよりも、「『ドレミファ娘』の洞口依子」の正体不明な魅力の再現を、知らず期待してしまっていたのです。
とにかく、『ドレミファ娘』の衝撃があまりに大きすぎたわけです。 今となって思うに。

男の子2人の友情を狂わせてしまう女の子、という前情報に、トリュフォ大好きだった私が期待していた点があったことも否定できません。
そこにいたのは、機関銃片手に子守唄をうたう得体の知れない「ドレミファ娘」ではなく、地方の町に住む手の届きそうな女の子の像でした。
「え、今回はこれなの?」という至極シンプルで幼稚な疑問を、
当時の私は一点の曇りとして持ってしまったという、恥ずかしいけれど、このことは正直に開陳しておきたいです。
俳優をひとつの役柄に押し込めることなく、その人の通った軌跡と反射がその俳優そのものであり可能性なのだと、
そういう楽しみかたが素直にできなかったんですね。

この映画に再び出会ったのは、それから20年の時間を経た、つい最近のことです。
オープニングとエンディングが冬のシーンだということも、すっかり忘れていました。 ずっと夏の話だとばかり思っていた。
そのくらい、この映画は、秋田を舞台にしながら、もくもくと湧きのぼる入道雲や青空、蝉時雨が目に耳に焼きつきます。
そんな夏の日を過ごす若者たちが、駅の改札前で時間をつぶす場面が印象的です。
2人の少年が、それぞれに今の自分を取り巻く環境からなんとか脱け出したいともがいている。
別の町の学校に通う少女も、自分の信仰と性、現実と未来のはざまで迷いを感じながら、小さなあがきを繰り返している。
彼らは駅からどこかへ行くことはできるけれど、住んでいるこの町に戻ってこなければならない。
あの駅舎は、改札は、せつないです。
少女は最後には町を出て行かざるを得なくなるし、少年の1人はこの世から去ってゆく。
残された1人は、当てもなく電車に飛び乗ってしまうのだけど、きっと大したお金も持ってない彼には、たどり着く場所などなく、
恥と罪の意識を携えて生まれ育った町にひとり戻ってくるかもしれない。
やがて吹雪が彼の顔を白髪の老人のように変えてゆく。

そんな彼らの焦燥と懊悩を、もはや自分がかつて通り過ぎた時間として思い出すようになるいっぽうで、
ノスタルジーになりきれず、形を変えて自分の中で静かに呼吸をし続ける傷ついた皮膚をじくじくと水にぬらすような痛さをおぼえたとき、
私は最初に観たときよりずっと真っ直ぐにこの映画に飛び込んでゆけるようになれたのでした。

家業の豆腐屋の店先で電話を取る姿、
教会で自分の「罪」から逃れるように祈りを捧げる姿、
そして少年のアトリエ(=子供部屋)で裸になってもつれあう姿、
その直後に神様を冒涜するも、そんな自分にさえ肯定的になれない姿、
自暴自棄になって残酷な別れの言葉を扉のこちらで呟く姿、
夜逃げ同然に町を去ってゆくときの笑顔の哀しさ。
この映画の洞口依子さんは、1人の少女のアンビバレントな心の微かな揺らぎを、全身でいきいきと表現して素晴らしいです。
出し遅れの証文みたいで申しわけないですが、そう思います。

挑戦的な佇まいやふてぶてしい視線を投げかけることはないのですが、
小さな町に住む女の子の柔らかな倦怠感を放っています。
それが刺々しさとして表れていないぶん、彼女の大胆さは生活と日常の匂いをまとっていて、
思春期のもどかしさからも、親近感のあるエロスがほんのりと漂ってきます。
2人の少年に向き合い交わす視線の温もりと、反面どこか醒めた感覚は、『ドレミファ娘』とはべつの魅力であります。

この映画には、言葉数も多くなく流麗さもないけれど、たしかな詩が存在すると思います。
それは封切り当時の私には、生硬さや蒼さの陰に隠れ気味でわかりにくかったけれど、いま観ると摺りこまれるように沁みます。
そしてそんな詩情とともに、洞口依子という女優が、少女の哀歓を、身体からはみ出しそうになる数歩手前で、
穏やかさと健気さを持って演じていることが、この悲劇に一条の救いの光を感じさせるのではないでしょうか。


プロデューサー 今村昌平 佐々木史朗 
監督 金秀吉 
助監督 月の木隆 
脚本 西村宣之 
撮影 金徳哲 
音楽 毛利蔵人 

出演
石橋保  児玉玄  洞口依子 
会沢朋子 深水三章  萩尾みどり 樋浦勉  小熊恭子  矢吹寿子  乱孝寿  
入江雅人  出川哲朗 



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