の資料本(&ポスター、チラシ、映像ソフト)


まず、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』についての記述がある本や雑誌を取り上げます。

1984年の『イメージフォーラム』誌には、この作品の「製作ノート」が掲載されていました。


「製作ノート・黒沢清監督が伊丹十三主演で撮る映画を独占レポート!」として、
p140からp158まで特集が組まれています。
黒沢監督は当時、商業映画としては『神田川淫乱戦争』を撮ったばかりの新進気鋭。
こうして特集が組まれることからも、その注目度の高さがうかがえます。

ちゃんと扉ページ付きで、そこには「『女子大生・恥ずかしゼミナール』(仮題)」と記されています。
当時、共同脚本/ 助監督だった万田邦敏氏がその舞台裏を書かれた示唆に富んだそのレポートによると、
当初用意されていたストーリーは2つあったようで、公開された版とはまったく別のシノプシス(概略)が
紹介されているのが貴重です。

ボツとなったほうですが、こちらは、田舎から姉を探しに東京にやって来た少女の物語で、
『産地直送・もぎたてのお尻』というタイトルが用意されていた、とあります。
舞台は大学ではなく夜の街。探偵がからみ、売春組織が暗躍して、いくぶんハードな印象を受けます。
ただ、ラストでは、まったくシチュエイションは異なりますが、
「一緒に来るか?・・・つらいことも多いが、おもしろいぞ!」と主人公の少女を誘うセリフ、
それに対して微笑む主人公、という場面が考えられていたようです。
万田氏は、『神田川淫乱戦争』の監督の次作としては、むしろこちらのほうが自然ではないか、と述べています。

この特集が今日とくに興味深いのは、「人脈」と題された章です。
ここでは、いわゆる撮影所人脈ではない、シロウトに近いスタッフが起用されていたことが説明されており、
さらに鋭いのは、黒沢監督が避けていたのは「見えすいた職人気質」であり、
むしろ監督自身は「映画の職人」たらんとしていた、という洞察です。

また、万田氏のレポートと併せて、実際のカットを用いて黒沢監督が作品に言及した「フィルムの余白に」というエセーも掲載されています。

こちらは現在、復刻された『映像のカリスマ(増補改訂版)』(黒沢清著 株式会社エクスナレッジ)にも収録されていますので、
その文章の魅力もあわせてぜひご一読ください。依子さんの写真も、いいのが使われていますよ。

そして、翌9月号に「後編」と銘打った万田氏の記事が掲載されており、こちらのほうは、より撮影日誌としての側面が強いです。
(表紙デザインは田名網敬一さん)

これによると、撮影は1984年5月8日から18日までの11日間、1000万円の低予算で制作されたこと、
主要ロケ地は東京水産工業試験所跡地で、のちに「第二国立劇場予定地」となった場所であることが記されています。
これは現在の新国立劇場にあたります。

当初、ロケは大学キャンパス内で、春休みに入った3月に撮影開始する予定だったようですが、
脚本書き直しのためにクランクインがずれ込み、5月(のゴールデン・ウィーク明け)になってしまいました。
そこで大学に見立てられる場所を探した結果、助監督の岡田周一氏が「偶然」この跡地を発見したのだそうです。
財務局の管轄地とあって、使用時間が午前9時から5時に制限されてしまったのですが、
スケジュール調整に苦心惨憺した結果、このルールを破って夜中近くまで撮影が行われるようになった、とあります。
おそらく近所の住民の通報で警察に中止通告を受けたものの、どうにか交渉成功し、使用時間を11時まで延長する許可を得たそうです。

おもしろいのは、コッポラ製作、ポール・シュレイダー監督ながら日本未公開となったままの『MISHIMA』(三島由紀夫を描いた作品)の
ロケハンも、『女子大生恥ずかしゼミナール』撮影中にこの場所にやって来たということ。

また、からみのシーンで、逆回転撮影、つまり役者が徐々に服を着てゆく演技を撮って逆回しで再生する方法、を試みたのも興味深いです。
通常の撮影以上にハードさが出たとのことですが、これは『女子大生・恥ずかしゼミナール』が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』へ転生する過程で
カットされたシーンではないでしょうか。

『イメージ・フォーラム』誌のこの号をパラパラとめくってみると、
「ブニュエル特集『欲望のあいまいな対象』『銀河』」、「ロージー追悼」、松田政男氏が『女子大生・恥ずかしゼミナール』のオクラ入りについて、
「<鈴木清順問題>とほとんど変わっていないと言いうる」と噛みついたコラムなどにまじって、「REPORT■自主映画日誌」と題された池田裕之氏の文章があります。

法政大学の自主映画制作グループ<位相機械ユニット>の上映会について書かれたこのレポートでは、
7分の新作『ブラームスを愛する』が「最も刺激的に思えた作品」と評されています。
「ひとりの女の子が大学の授業を終え、アパートに帰り、そこで同棲している男と、ブラームスのシンフォニー第3番を聴きながら、
洗い物をしただけ」という内容のこのフィルムの作者こそ、暉峻(てるおか)創三氏。
「テルオカく〜ん」の、あの人です。
(『ドレミファ娘の血は騒ぐ』には、テルオカくんに「ブラームスを聴こうよ」と誘われ、秋子が「聴きたくない」と答える場面がありました)
*暉峻さんへのインタビュー→
http://www.yorikofan.com/interview_teruokasan.html



2009年の秋に入って、突然、こんなうれしい書籍が出版されました。
『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』(港の人 出版)。
著者は、なんと万田邦敏氏その人。
前述の『イメージフォーラム』誌に1985年〜1986年にわたって連載されていたエッセイ「とっても恥ずかしゼミナール」ほか、
万田氏の映画批評や対談を収録した一冊です。
1989年にコスタ・ガヴラスについて綴られた一文など、当時からさらに20年寝かせて読む愉しみも味わあせてもらえますが、
当サイトとしては、なんといっても、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、いや『女子大生恥ずかしゼミナール』の制作過程や、
当時の洞口依子さんについて描写された文章を読めるのがスリリングです。
とにかく、私はこれを待っていた。
いちばんふさわしい人による、あの映画についてのドキュメントが、ついに書籍として出版されました。
これは、「洞口依子映画祭」の年として記憶し続けることになるだろう2009年を、さらに忘れられなくしてくれる「事件」であります。
あの「恥ずかし実験」の光と風をスクリーンからまともにくらった人は、ぜひ書店でお買い求めください。
なければぜひ注文してください。 
(詳しくは、「港の人」社のページ
http://www.minatonohito.jp/books/b094.html

ところで余談ですが、『イメージフォーラム』といえば、1985年度の映画ベスト10か何かの選出に、依子さんも加わっていました。
そのときに依子さんが選んでいた洋画は、なんでしょう?

答えはですね、『三人の女』なんですね。ロバート・アルトマンの。
1977年の作品ですが、85年に日本公開されたんですよね。
私はそれを本屋で立ち読みして、「なんじゃこのオンナは!!」と小さく声をあげたのですが、
ウォークマンをしていたので、かなり大きかったみたいですね。
恥ずかしい思いをしました。


黒沢監督がこの作品を語った記述がある本では、インタビュー本『黒沢清の映画術』(新潮社)も必携必読の一冊です。

こちらでは、オーディション時から撮影を通して洞口依子さんの印象が監督の中でどう変わっていったか、に触れられています。


『ユリイカ』誌は、2003年7月号を「黒沢清特集」と銘打って、洞口依子さんのインタビューを掲載しています。

黒沢作品での依子さんの重要度についてはあえて字数を割くまでもないことですが、と言いながらけっこう割いてる私ですが(!)、
この依子さんのお話は、出演者として以上に信奉者としての思いがこめられているのが興味深いです。
これだけ作品に出演されていたら、もう少しくだけた発言もあるかと思うのですが、この特集でもとくに熱いリスペクトを表しています。
しかも、黒沢マジックを理解しながら、いまだに解けない謎がある、といったニュアンスには、どこか爽快さすら感じます。
これは、黒沢監督を語りながら、洞口依子さん自身が見事に表現されている素晴らしいインタビューです。


さらにこの本。
『シナリオ』誌1985年10月号。

見ると、一緒に『血風ロック』なんてのが特集されたりしてます。
シナリオ採録はもちろん、「ドレミファ娘のキス」と題した「プロセスノート」を寄稿されているのが、暉峻創三氏。



季刊『リュミエール』誌1985年冬号には、
「欲望が映画を肯定する 『ドレミファ娘の血が騒ぐ』を中心に」と題された黒沢監督のインタビューが掲載されています。
聞き手は金井美恵子氏。
この記述だけで、あの時代にタイムトリップしてしまいそうな感覚に襲われますが、
なにせこの『リュミエール』は当時で1400円という値段で、高校生の私にはとても気軽に購入できる書籍ではありませんでした。
立ち読みできるような活字量ではなかったし(!)

インタビューはまさに『リュミエール』でなければ読めないような内容の記事で、
「分野を超えて、同時代の作家がようやく遂に出現した」という、金井氏の胸弾む思いの告白から始まり、
「感動的に幼稚な映画で」うれしかった、との感想が述べられます。

『ドレミファ娘』についてのインタビュー、というよりも『神田川淫乱戦争』からさらに以前の自主映画作品も含めた、
アーリー黒沢清を語る対談の観がありまして、そこがおもしろいです。

「非常に幼稚な欲望から」作品を撮りたくなる、と黒沢監督。
論理的に説明のつくものではなく、そういう絵を見たい、という欲望でしょうか。
その例として、『ドレミファ娘』の当初のアイデアに、恥ずかし実験終了後、平山教授が(恥ずかしさのあまり)小さな白い犬に変身している、
という設定を考えていたことが挙げられています。
また、『神田川〜』でも『ドレミファ娘』でも目を惹く、人物がジャンプする行動についても、
この「幼稚な欲望」の産物として述べられていますね。

『ドレミファ娘』のオペレッタ場面について、
歌は映画の娯楽的要素の一つであるから、「どんどんあっていいと思う」との弁。
昔の映画には、いきなり歌唱場面になる展開がよくあった、
「いきなりシーンが変わって、誰かがキャバレーに行けば、そこでは舞台があって必ず歌手が歌っていたわけですね」。
それを具体的に絵で見せてくれたのが、『ニンゲン合格』であり、またしても洞口依子さんだったわけですね。

『ドレミファ娘』の大学内で赤い旗が出てくる件については、
「あの映画のなかの学校を、ある色が支配している、みたいな感じに」したかったとのこと。
ただし、よもやいないだろうと思っていたら、赤色と60年代の学園闘争を結びつける人も出てきて、
「深いブルーだったら」よかったのだろうけど、ブルーは感覚的に好きになれないから避けたい、と。
カーテンやシーツやフトンなどの布地の小道具から、スーパーで買ったような「プリント柄は放逐しました」。

この当時から監督はホラーにこだわった発言をなさっていまして、
次回作は怪奇映画を撮ります、という言葉で締めくくられるのが、
皆までは言いませんが、なんとも複雑な後味を残します。

そして、依子さんの映画についての記述がある著書『子宮会議』。
 
自らの闘病の記録と、幼少時からデビュー、そして現在にいたるまでが依子さんのユニークな文章で綴られた一冊です。
『ドレミファ娘〜』だけにとどまらない内容の本ですが、あの映画に対する主演女優の想いを読めて、ほかの資料からは得られない感銘を受けます。

このように、『女子大生・恥ずかしゼミナール』、その失われた原画への想像は『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を解きほぐすような感を与えます。
もっとも、作り手の苦い思いを考えると、嬉々としてそれに興じる気分にはなれませんが。
ただ、いつの日か(にっかつ側の視点もふまえたうえで)この2作の全体像の研究が、なされるような気がしてなりません。


その他の資料について。

Beta(左)とVHS(右)のビデオ・ソフト。 大映株式会社映像事業部から品番はどちらもMFB-1223。 
1985年11月25日発売。値段はどちらも1,4800円で、当時はこれが普通の価格でした。

上記BetaとVHSのテープ本体。やはりBetaは小さいですね。

上記BetaとVHSの裏側。当時の英語タイトルBumpkin Soupの文字が。


右はパッケージ違いのVHSソフト。株式会社JVDから品番はF98JF-39。
裏側に「『マルサ・ミンボーの女』の伊丹十三 『愛という名のもとに』の洞口依子出演」と記されているので、1992年以後の発売。


チラシ各種。カラーのものも佳いですね。


DVDパッケージ。これもまだ海外では(ビデオの時代にも)ソフト化されていないが、いろんなルートで見ている人が多い。

パルコ公開時のポスター。ワタシの家に鎮座まします。

なお、
洞口依子さんへのインタビューでの私の発言にもありますが、
私は、この映画が必ずしも依子さんのベストだとは思っていません。ほかにも素晴らしい洞口依子がいる映画はあると思います。
ただ、あの80年代半ばに、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』という映画で、洞口依子という女の子に出会う、ということは
とても刺激的な体験でありました。自分が17歳だったということも、大きいと思います。というより、それに尽きるのかもしれません。

(追記)
関西で発行されていた情報誌『プレイガイド・ジャーナル』の1985年12月号と1986年1月号に、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』関連の記事が掲載されています。
東京で注目を集めたこの作品が86年3月末に大阪で上映されるにあたって、同誌が2号連続で特集したのです。

まず、1985年12月号。こちらには黒沢清監督が「ドレミファ娘のあいまいな欲望」というエッセイを寄稿されています。
これは黒沢監督の著書に収録されたのでしょうか。「映画を撮りたい」という欲望が、自身の演出やスタッフ、キャストによって最終的に作品として完成することを、
「欲望の残骸」と黒沢監督ならではの言葉で表現されています。12月号に掲載されたということは、黒沢監督が原稿を執筆したのも東京で上映された直後だったのでしょう。
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が熱狂と戸惑いの両方を浴びて、少なく見積もっても問題作として”語られている”真っ最中にあった、その生々しさが伝わってくるエッセイです。

次に、1986年1月号。こちらには黒沢監督のインタビュー(インタビュアーは塩田時敏氏)を中心に、山根貞男氏の評が掲載されています。
追加撮影を撮るにあたって、「30分も撮るのに1日しかない。そんな状況で出来るわけないというプロのがいるけど、僕は 出来ると思ったし、今でも思ってる。」「洞口依子も、1日でいいかげんに撮ってしまう環境で、凄くイキイキしてましたね。」
基本的にやりたいものは物語じゃないでしょう、という質問に、「初めは完全に物語をやろうと思っていた。意識的に『ドレミファ』のようなものを作ろうとは思っていない。」
作品への批評の声に関しては、「ゴダールだっていうのだけはカンベンしてもらいたい。そう見えるところもなくはないけど、そう言うならゴダールよりスピルバーグに似てるカットのほうが多いと思うしね。似てると言われて気持ちはいいですよ、でもね。」
「この映画は傑作でもなければ、まして愚作でもない」という蓮實重彦氏のコメントについては、「当たってるんじゃないですか。あっこんな映画もあったかという。珍しいものを見るんだという好奇心だけで見てもらいたい。」

山根貞男氏の評では、「『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を見ることによって、わたしたちは、映画の官能性と反官能性とに引き裂かれ、その衝突現場そのものになるのだ。」の一節がとくに印象に残りました。
この「衝突現場そのものになるのだ」は、まさに当時あの映画を見ていた私の状態が当てはまります。いや、じつにワケがわからなかった。良かったのか悪かったのかも言えませんでした。ただただ、わけのわからない事が、自分の脳内でファイヤークラッカーとなって炸裂していました。自分自身が変な祭事と化してしまったような出来事だったんです。そして衝突現場になったまんま、最後に洞口依子さんが歌い終わると、これまたワケのわからない切なさがこみ上げてきたのをおぼえています。そして残ったものは、それが実際の音楽であってもなくとも、この女の子が”歌って”いるのをもっと体験したい、という気持ちでした。

『プレイガイド・ジャーナル』1986年1月号の特集には、洞口さんと、彼女を演出中の黒沢監督の写真が3点掲載されています。どれも他で見かけたことのない写真で、監督の指示を真剣なまなざしで聞いている洞口さんの姿が初々しく、出来ることならここに載せたいくらいです。


洞口依子さんが語る』,etc (当サイトのインタビュー) 

2007年、洞口依子さんがこの映画のセリフを引用したコラム(夕刊フジ「おつかれさま」第7回)
暉峻創三さん(映画評論家/ キャスト)、を語る

アメリカの黒沢清研究家が語ると洞口依子 (当サイトでのメールインタビュー)

「洞口依子映画祭」<洞口依子x黒沢清x暉峻創三 トークイベント>レポート

(当HPの出演作解説より)

「ドレミファ娘」と呼ばれて(管理人書き下ろし”恥ずかし”エッセイ)


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