『洞口日和』@スペース:まとめ 

洞口依子さんにTwitterスペースでインタビュー(2022年5月21日) 



 去る5月21日土曜日のお昼2時から、洞口依子さんのTwitterスペースに当サイトがお招きいただきました。
 以前も何度か洞口さんのスペースでお話したことはあるのですが、今回はファンサイト「洞口日和」の公開実況トークという場を設けていただきました。
 上手く説明できないんですけど、『パシフィック・リム』のイェーガー、ヨリコファン号に洞口さんが搭乗し、操縦をシェアする感じ、とでも言いましょうか。

 今回のスペースは開始の数時間前に決まったもので、ほとんど打ち合わせもないまま、4時間15分のトークとなりました。ツェッペリンやスプリングスティーンばりの長時間ライヴ。
 バンクーバーでの生活や『子宮会議』、ご自身の演技に対する評価を過去作から現在進行形で撮影中の『将軍』まで語られた内容は、ファンサイトとしても残しておく意義があると考えて、以下にまとめていきます。



オープニング〜バンクーバーに
ヒア・カムズ・ザ・サン!
 

 長い冬がやっと明けたバンクーバーのスケッチ。街行く人の出で立ちや日常のやりとりなど。昨年の9月中旬に始まった洞口依子さんのカナダ暮らしも、夏の入口に差し掛かりました。 

『将軍』の台所など 

 佳境に入ったらしい『将軍』の撮影。具体的な進行についての質問は避けて、現場の裏方的な作業の様子を教えていただきました。
 たとえばcraftyと呼ばれる、お茶場。常に多種の軽食を欠かさず、スタッフも食べながら作業している姿に洞口さんも目を丸くしたようです。
 メイクアップとヘアーメイクそれぞれに担当者がいたり、地面から湿気が消えないように絶えず水を撒いている係がいるなど、スタッフの人数の規模の違いは私たちの想像以上です。
 洞口依子さんはカナダに到着してからも2ヶ月ほどはホームシックに悩まされたとのことです。旅慣れた人だけに意外でした。けれども徐々にバンクーバーの街が発する文化の匂いに嗅覚が刺激され、持ち前の好奇心で近所を歩いたり遠出したり、今では深い愛着をおぼえているようです。

『子宮会議』15周年 

 洞口さんが2007年に著した『子宮会議』が今年の6月1日で出版15周年を迎えることについて。
 当サイトの膨大な資料から、『子宮会議』出版にいたる2007年前半の活動をご本人と一緒に振り返りました。
 1月にパイティティのHPが立ち上がって、3月に最初のCD『マクガフィン』がリリースされて、そのライヴと映画『マクガフィン』の上映で沖縄を訪れる流れ。那覇では一晩で2回のライヴをおこない、起きてから首里劇場でも演奏したのです。 2007年のゴールデンウィークを中心にしたその濃密なスケジュールに、今になって驚きの声をもらす洞口さん。
 『子宮会議』を朗読する試みが始まったのも沖縄からで、その際に男性が真剣に耳を傾けていたことが嬉しかったそうです。

 ファンの側から見ていて、『子宮会議』が店頭に並ぶまでの洞口さんは、そのブログの記事を読んでも痛々しく映ることがありました。この人は演じることに見切りをつけて引退しようとしているんじゃないか、だけどあんなに大変なことが自分の身に起きたのだから、人生を仕切り直すなとは言えない、だけど・・・。
 執筆していた本が『子宮会議』とタイトルを変えて世に出る運びとなったときに、まるでデビュー作が『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と改題されて公開されたときのような、新鮮な風を感じたのは私だけではないでしょう。
 出版の3ヶ月前にベトナムを訪れて、そこで観光の誘惑にも負けずに本を完成させたことを思い返す洞口さん。
 子供の頃に愛読していたケストナーの『どうぶつ会議』を本棚に見つけて、タイトルを変えるヒントにしたと語る洞口さんの言葉に、彼女はあのとき自分のインスピレーションで風を呼び起こしたのだと実感しました。

ライヴ・パフォーマンス 

  『子宮会議』、パイティティ、『マクガフィン』の3つは、2007年に今までにない洞口依子さんの像を開きました。
 洞口さんは映像作品で観客を魅了してきた人だと私も思っています。だからライヴの場でウクレレを弾き、歌い、自著を朗読する姿が意外でした。そしてなぜもっと早くにそれが実現されなかったのかが不思議なほど、圧巻のライヴ・パフォーマンスを見せつけました。
 洞口さんは中島葵さん主演の舞台劇『川島芳子伝 終の栖、仮の宿』(1988年)を観に行き、その素晴らしさに「自分にはできない」と打ちのめされたそうです。
 もともとが「教科書を朗読することも恥ずかしかった」くらいに内気な子供で、その頃を知る人たちは「みんな驚いている」と言います。

レコードを愛する

 話題はバンクーバーでのレコード屋に移りました。カナダ入りしてから、迷ったすえにポータブルのレコード・プレイヤーを購入したという洞口さんには、バンクーバーで特にお気に入りのレコード・ショップが2軒あるそうです。
 彼女のレコード好きは筋金入りです。なにせ幼い頃にケロヨンのレコードなどがターンテーブルの上で回転するのを飽かずじっと眺めて、レコードの溝を目で追っていたというのですから。
 はじめて自分の意志で買ってもらったレコードはフィンガー5の「学園天国」(かもしれない)ということです。で、彼らが沖縄出身であると知って、どうして英語を話さないんだろう?と訝しんでいたそうです。そこから私もあわせて「フィンガー5のテーマ」を絶賛。昭和40年代前半生まれのトークでした。
 撮影の合間、スタッフの人がかけていたジョニ・ミッチェルの「ヘルプ・ミー」を耳にしたことから、カナダの地でジョニ熱が再燃した話。彼女の恋愛と流転に思いをはせて、
洞口さんがブリティッシュ・コロンビア州で暮らしていることにも縁を感じているようでした。
 このレコード屋トークは私も調子にのって、「店の人に、自分は『タンポポ』の牡蠣の少女だと言ったりしないんですか?」「『将軍』のスタッフの人はさすがに『タンポポ』を観てるでしょう?」などと、わきまえない質問を浴びせてしまいました。洞口さんは笑って否定されていましたが。

やっぱり猫が好き

 たくさんの役柄を演じてきた洞口依子さんですが、人への興味は演技のヒントになることはあっても、基本的には対人関係があまり得意ではない、と自分を見ています。
 「やっぱり、猫のほうが好きですか?」と尋ねると、必要な時に近づいてくる猫との距離感が心地よい、とのこと。
 洞口さんが猫好きであることはファンのあいだでは有名です。バンクーバーの撮影現場でも、待機中のドローンや、それ専用のヘリ・ポートをじっと見ているそうで、その姿こそが猫の眼差しを想像させます。

Grow Old with Me

 ここで洞口さんがお母様のことを話す一幕があったのですが、ご家族についてのプライベートな話題につき、当サイトのように保存して残す形では記録を控えます。
 その話から「年齢を重ねる」ことへトークが自然と移りました。
 洞口さんは十数年前から当サイトのインタビューでも「早く老け役を演じたい」と語っていて、当時の私にはその言葉の真意が飲み込めませんでした。しかし最近作の『終点は海』で砂浜に眠る洞口さんを観て、ステレオタイプな若さや成熟とは老いとは違う、こんな表現の域に達したのだと感銘を受けました。
 それで私も加藤治子さんと田中裕子さんのことを質問しました。洞口さんがデビュー時に久世光彦さんのドラマで共演し、文章でも尊敬の念を表したことがあるからです。そしてお二人とも年齢を魅力の味方につけてきた人たちです。
 これもプライベートな話なので詳しくは書きませんが、加藤治子さんとは長年のおつきあいがあり、田中裕子さんの存在は現在もいろいろな形で洞口さんのバンクーバー・ライフを温めているようです。

 以前のTwitterスペースで、洞口さんが「一緒に齢をとっていきましょう」と軽やかに言ったことがあります。これはジョン・レノンの歌のタイトルでもあるのですが、彼も彼のファンもその言葉を叶えることが出来ませんでした。
 洞口さんが「一緒に齢をとっていきましょう」と呼びかけ、私たちもそれを実感できる。このことは幸せなのだと思います。阿蘇山の裸の女神が、「ドレミファ娘」が、「新人類の旗手」が、今そんなことを言ってくれる。時が止まらなくて、本当によかった。

演技の葛藤

 続いては演技に関する葛藤のお話。これは受け止めるのが難しいトピックです。公開トークの場では私の力量不足のせいで、どう運べばいいのか迷いました。
 海外での長期のドラマ撮影で、しかも日本の視聴者のみを対象にはしていませんから、おそらくセリフの抑揚や表情や所作ふるまいなど、演技に求められることも違ってくるのでしょう。そのくらいには素人でも漠然と想像できます。
 しかし洞口さんが語っていたのは、「自分は日本で何をやってきたのか」という自問であり、それによって「今までにやってきたことを見つめ直す」ほど悩んだという、ご本人以外に立ち入れない質の葛藤であるようです。
 もちろん過去作を例にとって「そんなことはないですよ」と言いたい気持ちはあるのだけど、それで直面している問題が薄まるとは思えません。ファンの行ける深さではない。私には聞くことしかできませんでした。
 このトピックに連なるようにして、洞口さんがご自身をとても緊張しやすいタイプであると吐露されていたのが心に残りました。経験を積んでも緊張はするものでしょうが、そこまでとは想像できなかったので、『翔ぶが如く』収録でのエピソードなどを聞いて驚きました。

出演作メドレー

 さて、ここで話し手に沖縄から洞口さん旧知の、りょうさんが加わります。私も彼とは沖縄や東京で何度かお会いしています。
 ここからトークは洞口さんの出演作をめぐるお喋りに入りました。りょうさんのおかげもあって、スプリングスティーンの4時間ライヴのアンコールでロックンロール・メドレーが繰り広げられるように盛り上がったと思います。

 「洞口さんの2時間サスペンスには面白い作品がいっぱいあります」と私が発言し、『ゴルフスクール 女たちの華麗な斗い』(1992年)を挙げると、あのドラマでゴルフに初めて挑戦したことなど、洞口さんが笑いながら明かしました。
 
洞口さんのお気に入りの出演ドラマは『雀色時』(1992年)。憧れの浅丘ルリ子さんとの共演に緊張しつつも嬉しかった話が聞けました。同様に、岡田茉莉子さんと並ぶシーンがあった『津和野殺人事件』(2008年)も忘れがたいそうです。

 「共演陣に恵まれた」と回想するのは『蔵』(1995年)です。あのドラマでの洞口さんはご自身も素晴らしかったのですが、鹿賀丈史さんや松たか子さんなどの共演者を絶賛していました。また同作で香川京子さんと出演できたことにも舞い上がったそうで、おそるおそる言葉をかわした時の話は、四半世紀以上前の出来事なのに聞いている私もドキドキしました。

 大ヒットしたドラマ『愛という名のもとに』(1992年)では、それまでに演じたことのない普通の女の子の役だったこと、そしてパイティティにまで繋がる縁があったことなど、洞口さんのフィルモグラフィーと音楽活動との交錯がそこに起きていたか、と目から鱗が落ちる思い。
 『ふぞろいの林檎たちIV』(1997年)では、自分の役が「エリー」であることに驚き、超人気シリーズのキャストに加わる緊張感がレギュラー陣の優しさにほぐされた、とのことです。

 『からくり人形の女』(1989年)は田村高廣さんの演技を目の当たりにできて授業料を払いたいだったと語り、『蔵』の脚本も手掛けた中島丈博さんの情念の世界を感慨深げに振り返りました。 

 トークもこのあたりで3時間半を過ぎており、公開中の『パイナップル・ツアーズ』(1992年)のリマスター版をぜひ観てほしい、との結論(?)から、さらに最初に訪れた沖縄で出くわしたキジムナーの悪戯の話をもって、今回のスペースは終了しました。

 打ち合わせなしに、よくこれだけの話ができたと思います。時間もさることながら内容がバラエティに富んでいて奥深い。聞き役(私)がちゃんとしていれば、もっとディープに掘り下げたりできたかと反省しています。ただ、この独特の緩さが洞口さんらしくもあり、参加者としても楽しい時間を過ごせました。
 過去のインタビューなどでも語られたことのない事柄も多く、出演ドラマに関してこれだけ話していただける機会も初めてです。洞口さんがTwitterスペースを今後どういう形で活用していくのかわかりませんが、ちょっと覗いてみる気分で聞くとリスナーが知らない小路に入り込んでる自分を発見したりして、洞口さんならではの「空間」です。
 色とりどりのビーズが向きを変えると次々に模様を開いてゆく、まさに万華鏡のような世界。鮮やかで、なぜだかフフフと笑みが絶えない、そんな土曜日の午後でした! 

2007年のインタビュー→ 

2008年のインタビュー→ 

2009年のインタビュー

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2011年のインタビュー 

2014年のインタビュー 

熱くヨーリーを語る「當間早志監督インタビュー 

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