「ドレミファ娘」と呼ばれて -管理人書き下ろし「恥ずかし」エッセイ-




はなばしい戴冠式のたぐいには縁遠い人。
それで、あの映画を見た者は、彼女を「ドレミファ娘」と呼ぶ。

1989年のインタビューで、あのデビュー作について彼女はこう語っている。

「屈折した人間がかえってああいうのに出ちゃって、余計に屈折しちゃったって言うか、
『裏街道が素晴らしいんだ!』みたいな感じで。
最初からもっとメジャーな所の映画に出演してれば、もっと華々しい俳優人生送れたんじゃないかなっなんて(笑)」
(『Logout』誌第16号 1989年10月号 ログアウト・発行)

今年の夏、彼女に
インタビューさせていただいたとき(→こちら)、事前に私がいちばん悩んだのは、
この『ドレミファ娘の血は騒ぐ』について、どのくらい聞こうか、ということだった。
私は、アーティストではない。だが、アーティストのインタビューはよく見聞きする。
アーティストたるもの、常に最新の自分、「現在の私」について語りたがるし、聞いてほしがる。
私は、デビュー作のことを、どれだけ彼女に聞いてよいものか。
あるいは、彼女は、デビュー作について、どれほどしゃべるのが億劫だろうか。

読んでもらえればわかるように、彼女は実によくしゃべってくれた(実際にはあれの倍以上あった)。
そして、私の思い込みと読みはことごとくはずれた。
私が、あの秋子の役に共感はあったのか聞くと、とくになかった、と彼女。
最初の表情のアップはリテイクを繰り返したのかと聞くと、おぼえていない、と彼女。
しかし、それでこそ「ドレミファ娘」だ、と私は妙に得心した。
あの映画がデビュー作だったことを、「(自分のキャリアにとって)たいへんなことだったかもしれない」と振り返りながらも、
あの映画でデビューしていなければ女優を続けていなかった、と語ってくれたのは、収穫だったと思う。

ひとつの大きな当たり役を持つことは、俳優として、幸福でもあり、枷でもあるのだろう。
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』のリメイクなんて、まず考えられないし、
彼女以外が演じる秋子なんて、存在しえない。
あの役は、あのときの彼女のためにあったものだ。
だから、「ドレミファ娘」と呼ぶのは、あの映画で彼女に出会った感動をあらわす言葉の代替でもある。
あれを見た者から彼女への、最高の称号なのだ。
それは、どんな冠にも負けないくらい輝いている、と私は思う。

そこから、とても長い時間がながれ、彼女も長く曲がりくねった道のりを歩み、そしてとつぜん倒れてしまった。

現在の彼女は、子供を産むように、作品を、表現を続けたい、と願う。
この一年でその思いはより強くなったようだし、彼女自身も強くなったと思う。とてもうれしい。

ただ、どうか、彼女にはこのことも、心に留めておいてほしい。
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で彼女を見て、ここでこれを書いている私は、
TVであれを見てここにたどり着いた人は、これを読んでいるあなたは、
あの映画で彼女に出会うことで、それまでとは違う自分自身を見つけたはずだ。
見つけた果てに映画監督になっちゃった人もいるし、他にもいろんなクリエイターを生んでいる。
そしてこれからも、そんな人間が生み出され続けるだろう。
それは、19歳の洞口依子という女の子が、それまで私たちの内に存在しなかった命を吹き込んでくれた、ということでもある。

彼女は、そのあとも、『君は裸足の神を見たか』で、『マルサの女2』で、『からくり人形の女』で、
『北の国から'89』で、『愛という名のもとに』で、『泣きたい夜もある』で、『部屋 THE ROOM』で、
『私は悪女?』で、『勝手にしやがれ!!』で、『蔵』で、『CUREキュア』で、『ニンゲン合格』で、
『カリスマ』で、『ビタミンF』で、『ノースポイント・ポートタウン』で、『マクガフィン』で、
『一万年、後…。』で、私たちの感性に新しい命を授けてくれた。

彼女のあの絶望的な視線には、人が新しい一歩を踏み出すきっかけとなる不思議な力がある。
彼女から生まれるのは、作品だけではない。
観た人間の中に新しい種子を宿し、その人間を決定的に変えていく力が、彼女にはある。
そのことを、彼女にはどうか誇りに思ってほしい。希望に持ち続けてほしい。

私たちは、「ドレミファ娘」の子供たちである。
あの映画のエンディングで、白いドレスをまとった彼女は、機関銃片手に、
私たちのために子守唄を歌ってくれたではないか。


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