〜洞口依子 出演作品解説〜 |
『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011年) |
浜野佐知監督の『百合子、ダスヴィダーニヤ』は中條(のちに宮本)百合子と湯浅芳子の40日間の恋愛を描いた映画で、
百合子を一十三十一(ひとみとい)さん、芳子を菜葉菜(なはな)さんが演じている。
洞口依子さんが演じるのは、2人を引き合わせる作家・野上弥生子の役。
洞口さんが実在した人物を演じた作品はとても珍しく、私が思い当るものでも、岸たまき(『およう』)、楢崎龍(『翔ぶがごとく』)、
美空ひばり塩酸事件の加害者(『美空ひばり物語
』)ぐらいだ(小池昌代さんの
母親を演じた『わたしが子どもだったころ』も入れていいだろうか)。
明治18年(1885年)に生まれ昭和60年(1985年)に亡くなるまで、現役作家であり続けた野上さんの作品を、恥ずかしながら私はそれまで読んだことがなかった。
映画は予備知識の少ない状態で見るほうがいいし、見終わったあとも、みんながみんなお勉強して掘り下げる必要はないと私は思う。
ただ、洞口さんの演技を通じて野上さんの本を読んでみたくなったので、まずは高名な『秀吉と利休』を取り寄せた。
これが非常に良かった。
続いてこの映画ともかかわりのある『真知子』、さらに『大石良雄』、『海神丸』、『迷路』、『野上弥生子短篇集』、
『野上弥生子随筆集』、『欧米の旅』、『森』などと次々に読み進めることになった。
どれも感銘を受けた。
『人間・野上弥生子 −野上弥生子日記から』『評伝 野上弥生子 迷路を抜けて森へ』という研究書も読んだ。
どうしてこの人の作品を今まで読まなかったのだろう、自分が高校生の頃なら野上さんもご存命だった時期と重なったのに、と歯噛みするほど、
私はにわか愛読者になってしまった。
洞口さんの登場シーンの舞台は野上弥生子の邸宅の庭で、パンフレットによるとロケ場所は静岡県伊豆の国市にある国登録文化財の住宅らしい。
戦前に「文化人の別荘村として構想されたうちの一軒」とのことで、当時の洋風造りに歳月の重みが加わった佇まいがある。
その庭のようすと紅茶を飲んでいる洞口依子さんの姿が、まずはとても合っている。
野上さんの写真と比較するに、洞口さんは現代女性の顔立ちで、決して似てはいない。
けれど、野上さんの本を一冊読み終えて閉じるたびに、あの庭に洞口さんがいる風景、彼女が見せた余裕のある身のこなしと話し方、
そして百合子と芳子のあいだを往復させる、不思議な透明感があってなおかつ観察力の鋭そうな視線を思い出さずにはおれなかった。
野上さんの作品について触れた文章を読むと、必ずといっていいほど、その観察眼の鋭さが述べられている。
人や物をとらえる網の目が細かく、それを表す言葉の引き出しの中身が豊かにあるのだ。
『百合子、ダスヴィダーニヤ』で弥生子が百合子と芳子を会わせる場面での洞口さんに、私は静かな人間観察の視線を感じた。
諧謔も交えつつ自己紹介しあう2人を、弥生子はほぼ交互に見る。
ときどき軽い茶々を入れたりして、百合子と芳子の言葉の端々に隠れる自尊心や志にさらりと引き出してみせる。
そんな弥生子の心配りが、洞口さんの柔和な笑みのごく微かな変化で表われる。
「人間観察」などというとなにか驕慢な印象を与えるかもしれないし、まなざしの力がとても強い洞口さんは、役によっては相手を見透かすようにも映るのだけれど、
この野上弥生子役での彼女の視線はもっと落ち着いた、嫌味のない、自然な関心の発露だろう。
なるほど、あの文章を書く野上弥生子が人と人を結びつける姿はこんなふうだったかもしれない、と思わせる。
また、2人がどれほど近づくかをそっと窺っているような呼吸があり、満足げな表情がときどき微かに悪戯っぽくも映るのは洞口さんならではのニュアンスだ。
このニュアンスが反転するかのように、後日、百合子と芳子の進展してゆく仲を察した弥生子が浮かべる複雑な表情には、嫉妬めいた色も見える。
若者たちの会話のテンポを楽しみながら、進歩的な意見にはやんわりとした間合いで聞き手にまわる。
青さや勢いを受け止めつつ、2人の言葉の弾みを歓談の笑い声につなげる余裕も、人生の先輩としての経験と風格を感じさせ、百合子や芳子にも、そして観客にも信頼感を与えてくれる。
それらがあいまって、恋愛の始まりを司る野上弥生子とこの庭の風景は心に残るものになった。
先に挙げた『およう』や『翔ぶがごとく』『美空ひばり物語』での役は、ファンにとっての洞口依子像と重なるものが多く、とくに『美空ひばり物語』のときは私も大好きだった。
『百合子、ダスヴィダーニヤ』の洞口さんには、まるで野上さんの文章を洞口さんの演技で読むような味わいがある。
そのふたつが、人間観察の鋭さとそのまなざしの涼しさとなって慎ましく共鳴するように表れている。
だから、この映画の洞口依子さんを見ていると、野上弥生子さんの作品を読んでみたくなる。
そうやっていくつかの作品を読んだ私は、『野上弥生子随筆集』での故郷・大分で凧揚げや南画鑑賞に興じる野上さん、『欧米の旅』の野上さんを、洞口さんで見たくなった。
監督 浜野佐知 |