山のあなた 徳市の恋』(2008)

石井克人監督が清水宏監督の『按摩と女』(1938年)を再映画化したもの。
当サイトでは洞口依子研究所らしく、依子さんにフォーカスを当てます。

なんと言ってもこの作品は、『からくり人形の女』以来、依子さんと堤真一さんが日本間で相対するという、
ヨーリー・マニアにとってはたまらないシチュエイションがあるわ、
依子さんが「観音屋」の女中なら、「鯨屋」の女中には渡辺えり(当時まだ「えり子」)さんがいるわ、
なんかもう、「私に何か言ってほしいのだろうか?」と邪推したくなるような洞口日和ぶりであります。
ほかにも、私の好きな津田寛治さんが「鯨屋」の番頭だし、尾野真千子さんが女学生の一団にいるし、
彼らもじつに楽しそうに演じているのがうれしいです。

しかし、そんなとこばかり書いてたら、誰もわからない文章になってしまいそうなので、
もうちょっと建設的なことをやりましょう。誰でも思いつくことですが。

『按摩と女』での「観音屋」女中との比較です。
私も、この『按摩と女』は劇場でDVDが売られていたのを購入して初めて見ました。
清水宏の映画がこんな簡単に入手できるようになったのですね!

残念ながら、『按摩と女』で「観音屋」女中を演じた女優さんのお名前は現時点では把握しておりません。
どなたか、このへんの俳優さんにお詳しいかた、いらっしゃったらご教示くださいませ。
堤さんが演じた木村役は、オリジナルでは佐分利信さん。
子役研一は爆弾小僧。爆弾小僧といえば、もちろん『パイナップル・ツアーズ』でありますが、ここは省略。

佐分利さんと爆弾小僧の叔父&甥っ子が宿泊しているのが「観音屋」。
主人公の徳市は、物語中、ここを訪れることはありません。
ストーリー自体がきれいなシンメトリーをいくつか含んでいて、
徳市と福市、「鯨屋」と「観音屋」、美千穂と木村、 男子大学生と女学生、
これらが交互に描かれて進行します。

依子さん登場は4場面。
その最初が、木村とのシーンです。木村と部屋で会話を交わしているところに研一くんがやってきます。
木村が時刻表を調べ、女中(リメイク版では名前がお凛)が質問に答えます。
まず、依子さんの顔のアップが映し出されます。
オリジナルでは、カメラはこの女中にここまで寄りません。
監督の意図を感じるのがこのアップ。ほんの数秒ですけど、依子さんの表情が静止してるんです。
それも、気の抜けたような、つかみどころのない、あの依子さんならではの表情。
石井克人監督、ぜったい洞口依子ファンでしょう!ぜったいこの表情、ねらったでしょう!

この映画では、美千穂役のマイコさんが、オリジナルの高峰三枝子さんのセリフまわし、
とくにイントネーションをそっくりにカバーしていて、映画全体の大きな魅力にもなっていますが、
依子さんも古風な口跡で演じています。
古い日本映画をこよなく愛する依子さんにとって、これはかなり楽しい芝居だったのではないでしょうか。
『陰翳礼讃』のときもそうでしたし、依子さんの映画愛と遊びこころを同時に感じます。
さらに、その波長が石井監督の志にあるものと大きく共振しているようすが伝わってきます。

相対する堤さんですが、彼はことさら昔風の芝居を意識していないようです。
煙草の煙りの吐きかたなんか、いかにも堤真一さんらしい現代の男の格好のよさですし、
下心ある表情も、ユーモラスなニュアンスのつけかたが現代人に伝わりやすい。
そんな堤さんと相対したとき、依子さんの口跡に、引っかかりや独自の重力が生まれるのですね。
オリジナルを見ても、この女中さんはこんなに空気の流れを止めたりしてません。
依子さんは、細かいフックを入れまくり。空気が細かくたわんだり戻ったり、オリジナルにない表情がついています。

最後の最後、研一くんが女中さんに「ぼくはお昼はいらないや」と告げて、
それに対して「そうですか」と言う女中のセリフが、画面の外から聞こえてくる。
口跡はほぼ同じです。
でも、これがまた、独特なニュアンスに落ち着くんですな。
オリジナルの女中の「そうですか」にはない、おぼろな、霞がかかったような曖昧な感じがある。

2回目の登場は、美千穂と研一くんに、お茶を出す場面。
このとき、女中が美千穂をほんの一瞬、うかがうように見るんです。
この視線が、あまり友好的とはいえない感じ。
敵意とまでは言わないけれど、ほんのちょっと火花が散ってます。
同性として、彼女の美しさにジェラシーをおぼえるのか。
監督の演出意図は、どうやら彼女は木村に好意を持っている、ということらしいですが、
そこまでの意図は正直汲み取れませんでした。
逆にそのことが、かえって依子さんのつかみどころのなさと相まって、
この女中の存在は、観客に、異物をなめたような後味を与えることになったと思います。

3回目の登場で、監督のこの女中役に対する新解釈が、ほぼ確信に変わります。
按摩たちが尺八の音などを楽しみながらくつろいでいるところへ、「観音屋」の女中が呼びに来る場面。
オリジナルでは、女中の顔は一度も映りません。だから、誰なのかもわからない。
石井版では、はっきりと依子さんの顔が登場します。それも、かなり意識的に、按摩たちを疎んじるような顔色を示します。

この石井版は、全編を通じて、足音、川のせせらぎ、雨の音、滝の音などの効果が見事です。
オリジナルと比べると、ちょっと音を強調しすぎじゃないかと思うこともあるくらい、
とくに足音には細やかな神経が配られています。
そして、この女中が按摩を呼びに来て、用件を告げてすぐに立ち去るときの扉の音が、
按摩たちと目開きとの間に、じつはいつでもピシャリと閉まる扉が待っていること、
徳市の恋が実らないことを残酷に象徴しているかのようです。

4回目の登場はオリジナルどおり。
研一くんが「(旅館を)出るよ」と女中さんに声をかけて、彼女がやってくる。

というように、依子さんの役をオリジナルと比較すると、こんな発見がありました。
ほかにも、ラストのカットの違いなど、細かく見ていくと、石井監督が「リメイクではなく、カバー」と呼ぶ理由がわかります。

そうそう、私は、かつて依子さんの出演作を追うことで、派生的にいろんな映画への道を見つけたものでした。
たいていは名も知られないような映画作家たちの、センスや機知のわりに報われることのない小品が多かった。
彼女は、そんな名もなき無冠のヒーローたちに出会えるよう、いつもランタンを掲げて道を照らしてくれた。
今回、『山のあなた』を見て『按摩と女』に出会えたのも、やはり依子さんのおかげです。
今までのぶんも含めて、お礼を言いたいです。

(付記)
映画館で2度見ました。
その結果、最初に書いた文中に記憶ちがい、事実誤認があったので、
文章自体を改訂いたしました。

最初の文章では、1回目の登場シーンで、女中が「そうですか」と言ったあと、

”オリジナルではこのあと、部屋を退出して廊下を去っていく女中の後姿が映ります。
石井版ではこのカットがありません。”

と書きましたが、私の記憶ちがいで、ちゃんと部屋を出ていくカットは入っていました。
文中において重要な箇所でしたので、訂正してお詫びいたします。
ただ、その直前の「そうですか」は、2度目に見てもやはり浮遊したような響きがあり、
最初の顔のアップは、相当インパクトがあると思いました。
彼女が美千穂をチラ見するところも、よく見ると効果的に示されており、
そのイケズな視線が、そのあとの按摩たちに対する蔑視の表情へと、うっすら繋がっていることもわかりました。

また、マイコさんが役柄のわりに少々世間ずれた風情が足りない弱点を、
依子さんの色香が作品全体に対して補っているとも思いました。
オリジナルは、なんといっても高峰三枝子さんですからね。
このマイコという新人の女優さんは、次作もぜひ見たいと思わせるくらいの魅力がありますが、
旦那の囲いを逃げ出して山奥の温泉郷にふらりやってきた女、となるとこれは、
どうしても観客のイメージの磁性は洞口依子に傾くんじゃないでしょうか。


2008年5月24日 東宝系で公開

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