『一万年、後・・・・。』

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この作品は『洞口依子映画祭』で上映されます!

・2007年9月17日 ポレポレ東中野にて『子宮会議』リーディング・セッション
・                       映画『一万年、後・・・・。』上映


椅子に腰かけて『子宮会議』のページをめくる依子さんと、その横でアコースティック・ギターを
爪弾くファルコン。
これまでの依子さんのリーディングは、朗読する視線の先にある文字がそのまま聴き手の心に書き込まれ、
その内容の重さを聴き手に追体験させることに成功していたと思います。
8月のイベントでは、さらに、隠れがちだった何気ない一文の役割にハッとさせられたり、
黙読するうちには気づかなかった言葉が聞こえてきたりしました。

今回のリーディングは、これまででいちばん「音楽的」だったと思います。
たぶん、私が作品の内容に親しんだこともあるのでしょうが、依子さんの声のトーンとテンポはスムーズに流れていき、
朗読というよりも、声という楽器でギターとアンサンブルを奏でているようでした。

本人に聞いたところによると、ファルコンは非常に緊張していたということですが、
8月に渋谷で聞いたときよりも内容に寄り添う形で、文章の展開を、統一した曲想で支えていたと思います。
つまり、今回は、言葉が音楽的に聞こえて、音楽が散文的に読みきかせてくれた、と言えばいいでしょうか。

会場のポレポレ東中野は、前身のBOX東中野の頃からマイナー、アンダーグラウンド寄りの映画を愛する人たちに
支持される小屋だそうで、そうした場でなにが起こるかと身構える気持ちを柔らかくほぐすようでした。

今回の朗読はスクリーンの前でおこなわれたのですが、
真っ白なスクリーンを背に朗読する依子さんの姿を見ていると、
スクリーンに映った依子さんがそのまま飛び出してきて目の前にいるかのような、
はたして現実なのか虚像なのか一瞬その境が曖昧になるような、不思議な錯覚をおぼえました。

この日のイベントでは、リーディング・セッションのあと、沖島勲監督が脚本を書かれた『まんが日本昔ばなし』の
「八郎潟の八郎」が上映され、それから新作『一万年、後・・・・。』へと続きました。

『まんが日本昔ばなし』は私が子供の頃に欠かさず見ていた番組です。この「八郎潟の八郎」も当時見ました。
ただ、小学生だった私はこの話が当時あまり理解できておらず、今回30年ぶりに再見してようやく飲み込めたしだい。
いや、じつは30年後に見直しても、感動に、いまだ埋め尽くされない「余白」があることに驚きました。
この余白が「昔ばなし」の謎なんでしょうか。
それはある種、子供の頃に感じた未知への恐怖と繋がっているように思えます。

いま考えてみると、『まんが日本昔ばなし』が絶妙のバトン渡しになっていたのかもしれません。
『一万年、後・・・・。』が始まったとき、私はもう自分が東京の映画館にいることをすっかり忘れておりまして、
いわば魂が住所不定のまま、この映画に入っていきました。

そう、「入っていく」という表現が、この映画にはふさわしいです。
これはいま現在、まず他に類を見ない映画でして、観るというより、体験する映画。
この映画を体験するということで、自分の中に収拾のつかない状況が生み出されます。
見ているあいだ、自分自身にいろんなことを問いかけ、映画にも問いかけ、その答えを自分で見つけ、
自分のなかに、見る前には存在しなかったものが作られるような作品・・・というより出来事。
とても心をざわめかせる映画です。

沖島勲監督のようなキャリアのあるかたが、21世紀に作られたものがこういう映画だったことに、
私はいま、心がしびれています。
経験を積み重ねてここまで逸脱したものを作るということは凄いことです。

どこにも属していない映画でもあります。
ということは、いわゆる「アンダーグラウンド」にもおさまらない。
どこにも属していないから、とっても風通しのいい映画。

阿藤快さん演じる男が、どうやら一万年後の世界にやってきたらしい、というのが大きな枠としてあります。
場面は、ほぼ古びた民家の一室のみ。
一万年後の世界に、現在(よりかなり懐かしいたたずまい)の家に子供が2人いて、
彼らと阿藤氏とのやりとりで映画は進行します。

時間も空間も、確実になにかが「たわんで」進行します。
舞台劇を思わせるところも多々ありますが、この異物感は映画なればこそのたくらみです。
それが加速しだしたころ、洞口依子さんがお母さんの役で画面に登場します。

依子さんはこの映画に出演できたことを本当に喜んでいます。
30秒にも満たない出演場面です。
しかしこれは彼女のキャリアに太文字で書きたいくらい、重要な役。
話の流れで重要というより、この映画を見ているあいだに目に映るもの全体のなかで、という意味です。

この母親は、子を思う親の心を、「心配するものがあるということは幸せなことなんだ」という意味の言葉で
語りかけます。
ここにきて突然、そこまで加速してきたこの映画の世界が、一瞬だけ日常の側に戻されます。
ところが、洞口依子さんのユニークなところは、この母親「像」(文字どおり。壁に映し出されます)に、ありふれた包容力以外の、
非常に美しい毒や罠を含み持たせてしまうことなんですね。
また、彼女の怒っている顔の頬のふくらみは、母というよりも、どこか、女の子のわがままや気まぐれを思わせます。
話の流れのうえでは、ここに映し出されるのはお母さんなんですけど、私の目にはそこに少女の姿も見えました。

この映画に登場する女性は、このお母さんと、もうひとり、小学生の女の子。
この子が中盤で、それこそすべてを脱力させるような素晴らしい踊りを披露してくれるのですが(涙してしまいました)、
先にお母さんとして登場した依子さんの含み持つ少女の残像が、じつはそのシーンの感動を遠隔操作しているようにも思えます。

また、なによりも、この映画の「無所属」感は、洞口依子さんがたぶんに持っているものと通じ合っています。
どこにも属していない女優。
「アンダーグラウンド」にもおさまる場所がない。
彼女を見るということで、自分の中に収拾のつかない状況が生み出され、
見ているあいだ、自分自身にいろんなことを問いかけ、彼女にも問いかけ、その答えを自分で見つけ、
自分のなかに、見る前には存在しなかったものが作られる女優・・・というより出来事。

心はざわめきます。
でも住所不定の魂には、とっても風通しがいい。

『一万年、後・・・・。』は、洞口依子にとって、めったにない、「居場所」と言える映画です。


パンフレット。沖島監督のインタビュー。(無料!)

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