ヨリコペディア、
もしくは、「彼女について私が知っている2、3、4、5、6・・・の事柄」
by 「洞口日和」
(英語版は、こちら)
洞口依子
(日本では彼女の姓は「どおぐち」と発音し、最初の「ど」にアクセントを置く)
は、メインストリームよりもオルタナティヴ/インディペンデント系
の映画を好む多くの映画ファンや
映画作家たちにとって、アイコン的な存在の女優である。
彼女のその距離感のある美しさ、不機嫌なまなざし、そしてつかみどころのない官能性は、銀幕に陰翳に富んだ表現を運び、
映画の神秘的な瞬間をとらえようとする映画作家のこころざしをしっかりと支える。
洞口はオルタナティヴ/インディペンデント系の映画でのみ知られている存在ではない。
彼女は、「2時間サスペンス
」と呼ばれる、ゴールデンタイムの推理ドラマのファンに人気の高い女優でもある。
この種のドラマでは、彼女はよく容疑者や薄幸のヒロインを演ずる。
洞口は、2時間サスペンスのファンの多くに、「好きな犯人役」として名を挙げられることがよくある。
★ 60年代のファン
1965年3月18日、東京に生まれた洞口は、12歳でビートルズ
にのめりこみ、
その初期のヒット曲から後期のプログレッシヴな作品までを夢中になって聴いた。
彼女はすぐに、ヤードバーズ、キンクス、ビーチ・ボーイズ
などの60年代のロック・バンドへと興味をすすめ、
そこから60年代後半や70年代初頭の騒然とした時代の潮流に好奇心を抱くようになった。
数年のうちに、彼女は、ジャンゴ・ラインハルトやレス・ポール
ら伝説的ミュージシャンから、
プラスティックスやヒカシュー
といった日本のニューウェイヴ・バンド、
さらにはキャプテン・ビーフハートやレジデンツといったエクセントリックなカルト系まで、
何でもありの耳で音楽を聴くようになった。
また、洞口はいろいろな種類の映画、とくにヌーベル・バーグ
の作品を好んで観るようになった。
17歳のとき、彼女はジャン・リュク・ゴダール
の作品に魅了された。
ゴダールのファム・ファタール、アンナ・カリーナ
が思春期の洞口の心へ飛びこんできたのである。
アンナ・カリーナは洞口の人生に決定的な影響を及ぼすことになる。
★ 離陸する、または、脱ぐ
15歳のとき、彼女は「週刊朝日
」11/7号の表紙に選ばれた。
この(非ヌード)写真は日本で最も著名な写真家、篠山紀信
によるものであった。
篠山の国際的に最も有名な作品は、
ジョン・レノン&ヨーコ・オノの『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真である。
1983年、高校を卒業した洞口は、「激写
」にヌードを披露しはじめる。
「激写」は篠山紀信が「GORO」に持っていた連載で、その雑誌は大変多くの発行部数を誇るものであった。
篠山の「激写」は70年代半ばから男の子たちに人気があった。
洞口は彼らのピンナップ・アイドルの一人となったのである。
★ 血は騒ぐ
1984年、19歳のときにロマン・ポルノ
に配役されたことが、洞口の人生最初の転機となった。
ロマン・ポルノは老舗の映画会社、日活によるセックスを売りにした映画で、
大半の作品は低予算で、無名だがユニークな女優や男優それに映画作家たちを使っていた。
その中には、70年代に、クォリティの高さから高く評価されるものもあった。
洞口のデビュー作は、若き有能な監督、黒沢清
(黒澤明とは関係はない)によるものだった。
それは「女子大生恥ずかしゼミナール
」という仮題のついた映画だった。
洞口は、ロマン・ポルノの主役を演じることにまだためらいも感じてはいたが、
いっぽうで、気取りのない若者たちと仕事をすることに心をときめかせていた。
彼らも、やはりゴダールやヌーベルバーグに強い影響を受けていた。
ところが日活は、ポルノ映画としていやらしさが足りないという理由で、この映画の公開を拒否した。
黒沢とその支持者たちは日活からフィルムを買い戻したのだが、この映画を一般向きとして公開するには、
元のヴァージョンからカットせねばならないからみのシーンがいくつかあった。
さらに、その補充のために、新たなシーンを撮り足す必要もあった。
1985年、洞口のデビュー作がようやく公開されたとき、それは完全にべつの映画、
「ドレミファ娘の血は騒ぐ
」に生まれ変わっていた。
↑(「ドレミファ娘の血は騒ぐ」チラシ3種と、「君は裸足の神を見たか」「部屋 THE ROOM」のチラシ)
★ フォー・セール(売出し中)
賛否両論もあったが、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」はその年のユニークで優れた作品として評価された。
洞口依子は突然、「新人類
」とよばれる新世代の若者たちのアイコンとなった。
同じ年、彼女は「ドレミファ」で共演した俳優兼監督、伊丹十三の2作目の監督作、「タンポポ
」に出演した。
「タンポポ」と伊丹の次の監督作「マルサの女2 」で、洞口は「ドレミファ」以上に多くの観客の注目を集めた。
90年代を通して、洞口は働き続けた。
彼女のキャリアはオルタナティヴ/インディペンデント映画とメイン・ストリームの両方向をむいていた。
全体としてみて、彼女のこの10年は多作であった。
1992年、洞口は「愛という名のもとに
」というドラマに出演した。
この、7人の若者が大学を卒業して実社会で成長してゆく物語で、
洞口は、則子というデパートで働くごく普通の女の子を演じた。
このドラマはこの年の大ヒット作となり、最高視聴率が32.6%を記録した。
この作品が彼女に名声と人気という点で、とてつもない成功となったのは疑うべくもない。
また、90年代を通じて、彼女はTVの推理・犯罪ものでもっともおなじみの一人でもあった。
さらに、「蔵
」での彼女の演技は、同番組でもっとも傑出したものとして批評家からも視聴者からも絶賛された。
1993年、彼女は園子温のカルト作品「部屋
」に出演した。
洞口の静かな声とまったくの無表情な演技は、乾いたユーモアにもなり、
同時に全体の白黒の画調に悲痛な色合いを加えることにもなった。
90年代中盤、彼女の2度目の転機がかつての仲間である黒沢清によってもたらされようとしていた。
黒沢は「勝手にしやがれ!!
」シリーズという低予算のシリーズものを作っており、
洞口は、そのシリーズ全作で羽田由美子
という謎めいた女の役で登場する。
「勝手にしやがれ!!」の中、洞口は黒沢との最初の作品「ドレミファ娘」以上に洗練された美しさを見せる。
1997年、黒沢の「Cure
」が洞口をさらにそのキャリアの上へと押し上げた。この映画
において彼女は大きな成長をとげた。
彼女の出番は身の毛もよだつスリラー映画の全体のほんの1挿話なのだが、洞口の不調をきたしたような感覚の演技は、
壊れやすさや自我の崩壊を表現し、さらには夢遊病者の悪夢のようなヴィジョンさえも、作品全体に呼び起こしている。
「Cure」は、黒沢を国際的に注目させた作品である。
2000年、黒沢の「カリスマ
」が公開された。
一本の木をめぐる謎めいた寓話「カリスマ」において、洞口は神保姉妹の妹、千鶴を演じる。
洞口は、妖精のような無邪気さと小悪魔のずるがしこさを持つ、この多義性に富んだあいまいな役柄を見事に演じきっている。
まちがいなく、この映画では洞口の真髄が全開になっている。
★ 息ぎれ
2004年、彼女は子宮の癌
をわずらい、卵巣と子宮を全摘出せねばならなくなった。
彼女は1997年にTVディレクターと結婚しており、2人の間に子供はなかった。
ここで、洞口の人生とキャリアは、突然の暗転を迎えた。
生と死の境を垣間見て、深い憂鬱と絶望に突き落とされた彼女は、
アルコールに溺れ、自殺を図るまでになった。
この長く険しい回復の日々に、彼女は友人を訪ねた沖縄
で、ようやく、ささやかだが確かな心の安らぎを得ることができた。
洞口も出演した沖縄産のオムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』の監督の一人、當間早志
もその友人の一人だった。
彼は次作のインターネット・ムーヴィーのシナリオを書き、洞口を主役として出演させたのだった。
それは、妊娠中の女性の役だった。
洞口にとってそれは試練といえるような役であった。
だが彼女は、それを乗り越えねばならないことを知っていた。
彼女はその役を演じ、そして自分自身がなんであるのか、悟るにいたった。
この「探偵事務所5
Another Story File 7 マクガフィン」が、彼女のカムバック映画となった。
★ 勝手に逃げろ
↑(『子宮会議』)
2007年、洞口は「子宮会議」(エリッヒ・ケストナーの「動物会議」からつけたタイトル)を小学館から上梓した。
半自伝的な要素のある物語で、子供時代から子宮癌との闘いまでが描かれている。
悲しみはあるが、洞口の語り口にはダークなユーモアのセンスと、多少のマジカル・リアリズムが影響しており、
それが空想とドキュメンタリーの境目を曖昧にする。 洞口の映画的存在と同じくらいにユニークな本である。
「子宮会議」はクリエイティヴで想像力に富んだ作品として批評家に絶賛され、
また、多くの子宮癌をわずらう人たちからは、勇気づけられる一冊として認められた。
2007年にはまた、彼女のバンドのデビューがそのキャリアに加わった年でもあった。
パイティティというウクレレ・バンドで、基本的には石田英範
と彼女のユニットである。
数人のミュージシャン仲間が加わって、このバンドはハワイアンだけではなく、さまざまな音楽の化合物を演奏する。
(パイティティのデビュー・アルバム『Paititi』)
その影響は、ラインハルトの至芸、ビートルズのメロディー、ウェザー・リポートのファンク・・・
パイティティの音楽は「クロスオーヴァー・ウクレレ」と表現されるべきものである。
2008年、バンドはデビュー・アルバム「パイティティ」をリリースした。
(youtubeに彼らの動画が:
http://jp.youtube.com/view_play_list?p=542DDA0AF526379C)
(沖縄でのパイティティ、2008年)
(パイティティTシャツを着て)
洞口は今年、何本もの映画やTVに出演する予定がある。
また、彼女は新聞や雑誌にコラムも書いており、
さらに、「リーディング・セッション
」と題した重要な活動を行っている。
これは、彼女とギタリストのファルコン
による「子宮会議」の朗読と音楽のパフォーマンスであり、
すでに東京、埼玉、大阪、北海道、沖縄、広島で成功裡におさめた。
★ 人生
現在、洞口依子は多忙である。そして動いている。
2009年、洞口依子のキャリア25周年を祝う映画祭が、11月7日から20日まで、東京のシネマヴェーラ渋谷という映画館で開催され、
『洞口依子映画祭』と題された。
彼女のフィルモグラフィーから12本の映画と2本のレアなTV番組が上映された。
篠山紀信による最新作『digi+KISHIN
洞口依子』がスクリーンで上映され、篠山自身がスペシャル・イベントのゲストとして訪れただけではなく、
その新作を観客席で鑑賞するためにも現われ、また驚くべきことに、(洞口言うところの)「スペイン式」クロージング・セレモニーにも姿をあらわした。
黒沢清はステージの上で洞口と和やかに談笑し、『ドレミファ娘』撮影時の裏話などを披露した。
パイティティは、洞口の崇拝者でもある相対性理論のやくしまるえつこと、短いがクリエイティヴなセッションを繰り広げた。
2週間の期間中、シネマヴェーラはドレミファ娘「によって/のために」血は騒いだ。
喪失感の苦悩に打ち勝てなかったこともあったが、洞口は今こんなふうに語る。
「暗闇はある。でも私は暗闇と共存する方法をおぼえた」
彼女は以前と変わらず神秘的であり、以前よりもずっと魅力的である。
彼女は強くなったのだ。そのことが彼女の美しさをさらに強くしている。
それは彼女が獲得したもの、ではなかろうか?
洞口依子さんのホームページ 「のら猫万華鏡」は http://web.mac.com/yoolly/iWeb/Site/F6A06958-16B6-4C4A-BECB-A65BF61D3BA4.html (日本語) |
洞口依子さんのブログ「のら猫の独り言 のら猫小路日記」は http://blogs.yahoo.co.jp/yoriko3182006 . (日本語) 最近の写真と併せて、頻繁に更新されてます! |
パイティティのホームページは http://www.paititi.tv/index.html (日本語) ライヴ動画もあります! |
パイティティのMySpace→Paititi's page @ My
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