『タンポポ』(1985)

潮の香りが漂ってきそうな真昼の海岸。
晴れてはいるけど少し寂しげな空の青。海女たちが波間に浮かんでいます。

岩場でタバコを一服している白服の男は役所広司さん。
ふと見やると、ひとりの少女が海から上がってやってきます。
これが洞口依子さん。20歳ですが、それよりもずっと幼く見えます。
真っ白な潜水着が張りついた裸の胸がときおり透けて見えて、
一瞬、アップでとらえられたあどけない顔の後ろでは、渚がキラキラと輝いています。

「なに獲ってるんだ?」
少女は立ち止まったままで答えます。
「牡蠣よ」
その言葉に表情を少し輝かせる男。
「ちょっと見せてくれ」
少女はしゃがんで、とれたての牡蠣をひとつ、手網から取り出し、男に渡します。
「これ、ひとつ売ってくれないか」
「いいわよ」邪気のない微笑みを見せる少女。「開けてあげようか?」
男から手渡された牡蠣に、腰のナイフで切れ目を入れます。
この一瞬、依子ちゃんの眉間が険しくなっちゃって、手つきが慣れてなさそうに映るのはご愛嬌。

少女の掌で殻を剥かれてゆく牡蠣。開けると、真っ白なその身が潮水の中に浮いて光に初めてさらされます。
ゆっくりとクレッシェンドに入ってゆくマーラーの交響曲。
白服の男、牡蠣に口をつけようとして、殻で上唇の右端を切ってしまいます。
その様子を見た少女、立ち上がってもう一度牡蠣を受け取り、今度は身をナイフでえぐりだすと、
掌にツルンと落ちる牡蠣の身をこぼさないように運びながら、男に差し出します。
「あたいの手から食べるといいわ」

やや驚いた表情で体を折り曲げるようにして彼女の手に顔を近づける男。
「くすぐったい」少女は笑いだしますが、見ると牡蠣の身に赤くにじんで付着している男の血の跡。
ハッとして、固唾を飲むようにそれを凝視してしまう少女。
気にすることなく牡蠣にむしゃぶりつく男。
驚いたままの少女の顔のアップ。
1秒のさらに細かい時間の粒子の中で、少女の中で官能の花がわっと咲いてゆくのが見えるかのようです。
潮水に濡れたままの左手を男の頬に持っていき(男は牡蠣のほうを夢中で味わっている!)、
自分の顔へ向けると、ゆっくりと唇を近づけていきます。
接吻?いや、彼女は彼の唇の血のついたあたりを、1度、2度、3度と舌で味わいだすのでした。

カメラがわずかに上へパンすると、画面奥に電車が通っていくのが見えます。
で、すぐさま、列車がトンネルを突進するセクシャルな比喩イメージに変わり、このヒッチコックみたいな読点で、
そのまま電車の中にいる歯痛に悩む男のエピソードへ繋がるという、
狙ってやってもここまでできたら万々歳、てなくらいの見事な完成度を持つエピソードです。
いやぁ、もう言う事なし。でも、まだ言う。

よく知られていると思いますが、この映画は、ラーメン屋再建の大筋と関係のない人々のスケッチが入ります。
多くの場合、主人公たちとどこかですれちがう人々なのですが、歯痛に悩む男に代表されるように、
唐突に出て来るキャラクターもいます。

これらとは別に、サブ・ストーリーと言えるくらい重きを置いて描かれるのが、役所広司さんと黒田福美さんの挿話。
むしろ、こっちがこの映画の話題をなにかと提供したと言っていいでしょう。
あのすごく有名な、生卵の黄身を何度も口移しにやり取りしあう場面。
最後は口の中でグチャッとつぶれた黄身が、恍惚とした顔の女の唇を伝って垂れます。

牡蠣の少女の出番は、このあと、まさに間髪入れずです。
映画が始まって、49分30秒を過ぎたあたり。出番は、2分ほど。
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に次ぐ、依子さん2度目のスクリーン登板。
まだまだセリフまわしはおぼつかない。前述のように、牡蠣のこじ開けかたもぎこちない。
ところが、この表情の、瞬間を揺るがす衝撃力はどうだ。
男の唇を、新しく見つけた蜜を恍惚として味わうかのように舐めるときの、体全体から放つ瑞々しくも淫靡な匂いは。

この牡蠣の少女のエピソードは、映画の中でもとりわけ、前後の脈絡から独立しています。
風土色やローカルな趣きがまぶしてあるので、現実から特異に浮いているような印象は薄いのですが、
やはり白服の男をめぐるファンタジーととらえるのが妥当でしょう。
当時依子さんが「ブニュエルみたいな」と形容していたのは、『自由の幻想』あたりの展開の唐突さに、
メキシコ時代の諸作の持つ野趣漂うエロティシズムも含めてのことじゃなかったかと想像します。

この、数分間を彼女に託すというセンスは、どこから来たのか、今となっては監督に確認できないのが残念です。
でも、聞いてみたかった。
彼女をこんなふうに輝かせることを、どうやって思いついたのか。
監督のセンスが正しかったのは、何度も何度も瞬間の中に美しい花を咲かせる、その後の彼女を見てもわかりますね。

「秒殺」という言葉をわりとよく耳にするけど、さしずめこれは「分殺」か。
このあとの『地獄の警備員』、そして最近の『一万年、後・・・・。』と並ぶ、洞口依子の3大「分殺」作品の筆頭格。

洞口依子は、2分で世界を手に入れる。
分殺のオペラか。


1985年11月23日公開
伊丹十三監督作品
伊丹プロダクション製作 
東宝配給

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