『留守宅の事件』(1996)

「古谷一行さんと従兄妹を演じる2時間ドラマは何でしたか?」とのご質問を受けました。
これです。出演作リストに入っていませんでしたね。
おかげで早速追加し、取り上げることができました。 ありがとうございます。

福島県で妻(余貴美子さん)との平凡な生活を営む萩野(古谷一行さん)という男がいます。
彼を、学生時代の後輩・栗山(内藤剛志さん)が訪ねに東京からやって来る。
栗山は、萩野の従妹と結婚しています。
従妹のことを久しぶりに聞いた萩野は、どうも過去に彼女と何事かあったようで、
奥さんに嘘をついて、東京へ向かい、彼女に会うため栗山の留守宅を訪れます。
この従妹・宗子が洞口依子さん。彼女もまた家にはいません。
しかたなく福島に戻った萩野は、彼女が東京の自宅で死体となって発見されたとの報を受けます。
妻の手前、彼女に会いに行ったことを言えない。
そこへ、現場から自分の指紋が検出される・・・

という、スネに持つ傷を隠すために、のっぴきならない状況に追い込まれる筋立てでおわかりのように、
これは松本清張原作のミステリーをドラマ化したものです。

巻頭しばらくして死体で発見される宗子は、当然、回想シーンと写真の中でしか登場しません。
現在進行形で動く萩野、その妻、栗山、そしてこれに絡む宗子の妹(芳本美代子さん)とは、
べつの時間の中にいます。
そして、そんなすでにこの世のものならざる存在となった宗子を洞口依子さんが演じるところに、
この作品の旨味がたっぷりある、と言っていいでしょう。

写真の中、お気に入りのアンサンブルを着て微笑む依子さん、
通夜の席で遺影となってこちらを見ている依子さん、
棺の中で死化粧を施され、目をつむったまま動かない依子さん、
そして真っ暗な物置の中で、無残な死に顔を画面奥に向けて横たわる依子さん、
それら彼女の静止イメージが、通俗的でさえあるストーリーに、静謐な雰囲気を忍び寄らせます。

さらに、以前、萩野と忍んで泊まった旅館で、畳に座って上半身をやや曲げて窓の外を眺める姿、
そのとき降っている真昼の長雨、そして彼女が近所の縁日で買ってきた籠の中の鈴虫の点出。
2時間サスペンスでは見慣れた設定から、「日常生活を留守宅にして漂泊している男女」の情感が
息苦しくなるくらいに描き出されて秀逸な場面です。

宗子という女性は、かつて萩野に詩集をプレゼントしています。
はっきりと画面に映らないのですが、まちがいありません、
その本こそは、『珊瑚集』。
ボードレールやヴェルレーヌらのフランス近代詩を永井荷風がまとめたものです。
現実や日常の前にはかなく消え入りそうになりながら、刹那でも強い絆に惹かれ求め合う男女の機微が伝わる一冊。

岩波文庫の、カバーなしです。宗子は古本屋で買ったのでしょう。
「愛するいとこの宗子より」と書き添えています。
彼女は、そういう女性なんですね。
彼女の死に顔や、写真のなかでの微笑みがまとってしまう哀しみの色あいは、これとつながっているのだと思います。

宗子は、密かに慕い続けた従兄の萩野が結婚してから、萩野のいない日常を、彼の「留守」の世界を過ごしてきたのです。
依子さんの存在に漂う倦怠が、宗子の空虚と孤独をみごとに表現しえて、作品全体の重要な鍵となっています。
まるで生きながら死を夢みているかのような淡く柔らかいその倦怠は、宗子に悲劇が訪れたあと、
遺されたイメージでさえも、この世にないはずの彼女が生きて表現しているかのような、
そして、被害者であるにもかかわらず、すべての凶事を操っているかのような、甘美に倒錯した錯覚をもたらすのです。

私は、洞口依子という女優の、こういうところにいちばん惹かれるんです。
作品のなかに、べつの時間を、べつの想念がすべり込んでゆく入口を、ぽっかりと広げることができる人。
彼女が演じるからこそ、きっと『珊瑚集』の中で宗子はヴェルレーヌを口ずさんだのだろう、そういう女だったのだろうと思う。
イマジネーションの遊べる庭がある女優なんです。


ヴェルレーヌの「道行」(永井荷風による訳詩)。


寒いさむしい古庭に
今し通つた二つのかたち。

眼(まなこ)おとろへ唇(くちびる)ゆるみ、
ささやく話もとぎれとぎれ。

寒いさむしい古庭に
昔をしのぶ二人のかげ。

――お前は楽しい昔の事を覚えてゐるか。
――なぜ覚えてゐろと仰有(おつしや)るのです。

――お前の胸は私の名をよぶ時いつも顫(ふる)へて、
お前の心はいつも私を夢に見るか。――いいえ。

――ああ私等(わたしら)二人唇(くち)と唇とを合はした昔
危(あやう)い幸福の美しい其(そ)の日。――さうでしたねえ。

――昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
――けれども其(そ)の望みは敗(やぶ)れて暗い空にと消えました。

烏麦(からすむぎ)繁(しげ)つた間(なか)の立ちばなし、
夜より外に聞くものはなし。


1996年1月9日21:02-22:54
「火曜サスペンス劇場」(NTV)にて放送
嶋村正敏 演出
大野靖子 脚本
松本清張 原作

「この人を見よ!」へ

←Home