"Ukulele
Rendez-vous" by Paititi
/
「ウクレレ・ランデヴー」
子供のころ、ラプソディーという言葉とおなじくらい、ランデヴーの意味がわかりませんでした。
ラプソディーの場合は、「ラヴ」ソディーだとずっと勘違いしていて、「狂詩曲」のことだと知ったのは、
十代はじめのことだったと思います。
ところが、今度はその「狂詩曲」の意味がわからない。
当時ウディ・アレンが『マンハッタン』という映画でガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を用いて、
それをラジオで聞いたときも、気分はまだ「ラヴ」ソディーでした。
ランデヴーは、これよりもう少し想像力の手の届くところにありました。
なにせ「ブランデー」に似ている。
はたして、それは「逢いびき」の意味であったのだけど、意味はわからなくとも、
男女がお酒を飲んで楽しむ睦事に関係あるのだろうくらいには察しがつきました。
だから、あえて親にも聞かなかった。
そういえば、その頃くらいから、親に聞きにくい疑問が増えるようになったのかな。
逢いびきもランデヴーも、まだはるか遠い世界のことだったけど、
身体のみぞおちあたりが、わさわさと騒ぎ出す年頃ではありました。
ヰタ・セクスアリスというやつの到来です。
その時期、いま思うとたいへん残念なことに、私は洞口依子という女の子の裸に出会いそこねていました。
彼女のヌードが『GORO』の「激写」に登場するのは83年なのだけど、私は15歳で、シャイで、
『GORO』をレジに持っていく勇気がありませんでした。
『平凡パンチ』だったんですけど(女性で、このボケのニュアンスがわからないかたは、男性に訊いてください)。
『ドレミファ娘』が公開されるのと前後して、「いまはソラシド」と題された「激写」がありましたが、これも間に合わなかった。
結局、彼女を「激写」で見たのは、さらにあと、88年のタヒチでのセッションの掲載号。
素晴らしい写真で、大好きです。
ただ、その年頃の女の子の多聞にもれず、そのときの彼女の裸も同じところに留まるを知らなかったのでしょう。
そこには、もはや「恥ずかし実験」を経た女優のアウラが身についており、
やはり、彼女の原点には立ち会えなかったという苦いひけ目が、私には少なからずあります。
原口智生監督による『ウクレレ・ランデヴー』のPVで、彼女は泡風呂につかって、ラメ装飾のウクレレを爪弾いて唄ってます。
このシチュエイションだけで、甘酸っぱい思いをかみしめる男性も多いでしょう。
『子宮会議』については、あえて何も言わなかったり、発言の機会がうまくつかめなかった男性ファンには、
彼女が戻ってきたことをこれで実感する人もいるかもしれません。
だけど私には、ここでの彼女が、『子宮会議』から遠いところにいるとは思えないのです。
たしかに、目に見えるちがいは大きいです。
なにより、服を着ているか着ていないかのちがいがある。
けれども、あの本が、苦悩と憐憫を往復する泥沼から、再生へ向けての一歩を踏み出す一冊であったのなら、
ここでの彼女の裸から、ウクレレから、その足音が聞こえてこないでしょうか。
彼女は、原点に戻ったのではなく、前に進んだのだと思います。
いっしょにお風呂にはいってウクレレを弾きましょう、と彼女がうたうと、
なぜか黒ずくめの男3人が泡の中で真っ赤なウクレレを弾きだしたり、指パッチンしながら踊ったり、
これ以上削れないくらいシンプルに、パイティティというバンドの馬鹿馬鹿しくも軽妙な魅力を映し出したこのPVは、
洞口依子の新しい誕生を祝う作品でもあります。
18歳の誕生には立ち会えなかったけど、彼女が生きて歩みを進めるということは、
こういうことでもあったのかと、初めて観たときに大きな喜びに包まれました。
お風呂でウクレレを弾くまでに彼女が越えなければならなかったハードルは、
私にはとても想像しきれるものではありませんが、
これは、とても楽しく笑える『子宮会議』から続く道中です。
この道を嬉々として往く彼女は、やっぱり本物のアーティストだと、胸の底がじんわり熱くなる思いです。
Don't
look back, Yoolly!
(パイティティ「ウクレレ・ランデヴー」→yoollytube/ Yoriko Rocks)
「依子がロック!」へ戻る
←Home
(「洞口日和」)