〜洞口依子 出演作品解説〜

『君は裸足の神を見たか』(1986年)



    

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この作品は『洞口依子映画祭』で上映されました!


一匹の猫だから、うれしい
一匹の猫だから、かなしい
彼女も、たった一人だから、うれしい
たった一人だから、かなしい
(劇中の詩より)


日本映画学校の校長だった今村昌平監督が、在校生の西村宣之氏の脚本(原題『ふたつの輪』)を気に入り、
卒業生の金秀吉氏の監督で映画化となった作品です。
西村氏は当時20歳、金氏は24歳とのことで、これは当時の邦画界でもかなり若い年齢であったと記憶します。
また、出川哲朗氏や入江雅人氏ら、同校が「横浜放送映画専門学院」だった頃の生徒さんも出演されていて、
出川氏にいたっては「制作進行」としてもクレジットされています。
物語の舞台は当初の脚本にあった秋田の大曲から、今村監督が『ええじゃないか』でロケに訪れた同県角館に変更し、
スタッフ、キャストはかの地の青少年センターに陣取って、85年の夏と冬にロケが敢行されました。

私が初めて見たのは86年のゴールデンウィーク、梅田の喧騒の真っ只中にある三番街シネマ2でした。
ちなみに、大阪で『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が公開されたのが、これにひと月先立つ3月下旬のこと。
しかも私は18歳でした。 生意気なアイデアで頭がパンパンだったのです。

今ではこの作品をいとおしいと思う私ですが、当時は重い物語展開に惹きつけられながらも、
そこに描かれる若者像には戸惑いをおぼえました。
地元のスーパーでもあまり見かけなくなったような地味な高校生たちの物語。
ケレン味や衒いなく、時にストレートすぎるくらいに真っ直ぐに描かれているのも、あの時代には浮いていたように思えます。

いや、ホント言うとそんなことよりも、「『ドレミファ娘』の洞口依子」の正体不明な魅力の再現を、知らず期待してしまっていたのです。
とにかく、『ドレミファ娘』の衝撃があまりに大きすぎたわけです。 今となって思うに。

男の子2人の友情を狂わせてしまう女の子、という前情報に、トリュフォ大好きだった私が期待していた点があったことも否定できません。
そこにいたのは、機関銃片手に子守唄をうたう得体の知れない「ドレミファ娘」ではなく、地方の町に住む手の届きそうな女の子の像でした。
「え、今回はこれなの?」という至極シンプルで幼稚な疑問を、
当時の私は一点の曇りとして持ってしまったという、恥ずかしいけれど、このことは正直に開陳しておきたいです。
俳優をひとつの役柄に押し込めることなく、その人の通った軌跡と反射がその俳優そのものであり可能性なのだと、
そういう楽しみかたが素直にできなかったんですね。

この映画に再び出会ったのは、それから20年の時間を経た、つい最近のことです。
オープニングとエンディングが冬のシーンだということも、すっかり忘れていました。 ずっと夏の話だとばかり思っていた。
そのくらい、この映画は、秋田を舞台にしながら、もくもくと湧きのぼる入道雲や青空、蝉時雨が目に耳に焼きつきます。
そんな夏の日を過ごす若者たちが、駅の改札前で時間をつぶす場面が印象的です。
2人の少年が、それぞれに今の自分を取り巻く環境からなんとか脱け出したいともがいている。
別の町の学校に通う少女も、自分の信仰と性、現実と未来のはざまで迷いを感じながら、小さなあがきを繰り返している。
彼らは駅からどこかへ行くことはできるけれど、住んでいるこの町に戻ってこなければならない。
あの駅舎は、改札は、せつないです。
少女は最後には町を出て行かざるを得なくなるし、少年の1人はこの世から去ってゆく。
残された1人は、当てもなく電車に飛び乗ってしまうのだけど、きっと大したお金も持ってない彼には、たどり着く場所などなく、
恥と罪の意識を携えて生まれ育った町にひとり戻ってくるかもしれない。
やがて吹雪が彼の顔を白髪の老人のように変えてゆく。

そんな彼らの焦燥と懊悩を、もはや自分がかつて通り過ぎた時間として思い出すようになるいっぽうで、
ノスタルジーになりきれず、形を変えて自分の中で静かに呼吸をし続ける傷ついた皮膚をじくじくと水にぬらすような痛さをおぼえたとき、
私は最初に観たときよりずっと真っ直ぐにこの映画に飛び込んでゆけるようになれたのでした。

家業の豆腐屋の店先で電話を取る姿、
教会で自分の「罪」から逃れるように祈りを捧げる姿、
そして少年のアトリエ(=子供部屋)で裸になってもつれあう姿、
その直後に神様を冒涜するも、そんな自分にさえ肯定的になれない姿、
自暴自棄になって残酷な別れの言葉を扉のこちらで呟く姿、
夜逃げ同然に町を去ってゆくときの笑顔の哀しさ。
この映画の洞口依子さんは、1人の少女のアンビバレントな心の微かな揺らぎを、全身でいきいきと表現して素晴らしいです。
出し遅れの証文みたいで申しわけないですが、そう思います。

挑戦的な佇まいやふてぶてしい視線を投げかけることはないのですが、
小さな町に住む女の子の柔らかな倦怠感を放っています。
それが刺々しさとして表れていないぶん、彼女の大胆さは生活と日常の匂いをまとっていて、
思春期のもどかしさからも、親近感のあるエロスがほんのりと漂ってきます。
2人の少年に向き合い交わす視線の温もりと、反面どこか醒めた感覚は、『ドレミファ娘』とはべつの魅力であります。

この映画には、言葉数も多くなく流麗さもないけれど、たしかな詩が存在すると思います。
それは封切り当時の私には、生硬さや蒼さの陰に隠れ気味でわかりにくかったけれど、いま観ると摺りこまれるように沁みます。
そしてそんな詩情とともに、洞口依子という女優が、少女の哀歓を、身体からはみ出しそうになる数歩手前で、
穏やかさと健気さを持って演じていることが、この悲劇に一条の救いの光を感じさせるのではないでしょうか。

プロデューサー 今村昌平 佐々木史朗 
監督 金秀吉 
助監督 月の木隆 
脚本 西村宣之 
撮影 金徳哲 
音楽 毛利蔵人 
 



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