「のら猫万華鏡」連載を終えて
洞口依子さんインタビュー vol.7 (2020年10月下旬)



 洞口依子さんが『47NEWS』に連載していたウェブ・エッセイ「洞口依子 のら猫万華鏡」が先ごろ終了しました。2014年4月から2020年9月末までの長期連載でした。
 「もっと読みたかった」と惜しみ、「書籍化してほしい!」と望むファンのかたも多いでしょう。
 身近な出来事から異国の旅行記とトピックも幅広く、小さな粒が大きな華になって次々と形を変えてゆく、まさに万華鏡のようなエッセイで、私も次はどんな模様を描くのだろうと楽しみにしておりました。
 終了した連載ではありますが、長く記憶に残るのは間違いないし、もっと味わいたい気持ちも減りません。自分が記事を読んでなにを感じたかを反芻しています。
 今回、お忙しい洞口さんにお願いして、「のら猫万華鏡」についてメールでインタビューさせていただくことが出来ました。私と同じく”のらロス”を抱えるかたには、ご本人による 「のら猫万華鏡」の”読むオーディオ・コメンタリー”みたいな感じで楽しんでただける内容になっております。
 これだけ多くの言葉をご本人からいただき、洞口さんへの感謝はもちろん、これをファンのみなさんと共有できることを光栄に思います。

「のら猫万華鏡」の連載終了、長期にわたってお疲れさまでした。洞口さんのファンとして、愛読者として、残念なのですがお疲れさまでした。
かなりの長期連載となりましたが、連載を始めたきっかけを教えていただけますか?
また、当初、どのような内容を考えられていたのでしょうか。

洞口依子 


 ありがとうございます。きっかけは、友人から文章を褒められたのがきっかけです。
 文章には自信がなく、最初はお断りしておりましたが、好きなことを好きなように書いていいと言われ、「好きなことを好きなように」というワードに敏感に引っかかりました。ここで、私ののら猫アンテナがビビビときたんです。
以前から機内誌(スカイネットアジア航空)にはコラム連載経験があったのですが、そこで「のら猫万華鏡」という連載を立ち上げ、がんになって治療に専念するために終えて。
 で、今回その時のタイトルを活かして、好きなことを好きなように、書きはじめました。 

身近な出来事からカンボジアや中国の旅行など、トピックが幅広くて「次は何だろう?」と期待していました。
毎回、何について書くかはどのようにして決めていたのでしょうか。また、文章を書くにあたって表現の仕方などで心掛けていたことはありますか?

洞口依子 


  通信社のデジタルサイトという枠という意識も少しはあったりしましたが、
  私を通じて覗く世界 というものに拘りました。
  私がまわす万華鏡の世界をどうぞご覧になってみてくださいという。
  長くやっていると個人的にネタ切れとかもあるのですが、そこは、いつも周囲におもしろ人間がいて
  私に嫌というほどネタを与えてくれます。それと、写真はなるべく自分で撮影したものと拘りました。
  映画の話になると、宣伝部から自分でお借りしたり、ほとんどDIYです。 
  文章、表現については、そこまで考えている余裕がなかったです。
  というか、本当に構成力も文章力もないので、苦しんでました。
  だから、たまに、プロの方に褒められたり、叱咤激励されると本当にうれしかったです。
  そうやって、私は成長してきました。


洞口依子さんという万華鏡で世界を覗く楽しさと同時に、洞口さんの魅力が万華鏡に喩えられるなと改めて思いました。
しかし、文章に自信がないとはビックリですね。構成も流れるように自然で、いつも優しい風を浴びているみたいにリズムが心地よいです。
行と行の間でふと立ち止まって、言葉に書かれていないことを感じることができる、たまらない文章ですよ。

洞口依子 


  うふふ、嬉しい。


掲載される写真も毎回の楽しみのひとつでした。とくに洞口さんのファンとしては、子供の頃のお写真やご家族のお写真をたくさん拝見できる機会でもありました。
「家族」も「のら猫万華鏡」に通底するテーマのひとつだったように思います。
これまでになく、ご自身のご両親への想いや一般的な家族、映画の中の家族像について書かれるようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
また、家族というものに対する想いの変化はありましたか?

洞口依子 


  昨年父が亡くなり、ゴロンと何かが落ちたんです。
  母は認知症で、施設に入ったまま御花畑に囲まれて暮らしているような少女に戻っています。
  そこから、私は目覚めたのかも。
  家族離散。
  家族の解散です。あるいは、リバース(rebirth)。
  私にとって、家族ほど得体の知れぬものはありません。
  (よその家庭はともかく。)
  私の家族は普通の形をしながら、歪でした。
  それを少しずつ解析しているのかもです。
  擬似家族や似非夫婦なんかにあこがれます。
  もし、家族屋という商売があったら、やりたいほど。
  家族のふりをして、稼ぐんです。あ、......役者かそれは!!


(笑)洞口さんは、かなり早くに実家から自立して生活されたようですが、女優としてデビューされた頃にご両親がどう見守っておられたか、聞かれたことはありますか?

洞口依子 


  あまりないですが、かなり心配していたようですし、心配もかけました。
  しかし、私以上に女優気質な母のおかげで、何か「諦めない」という気負いは常にもらえたというか・・・。なんですかね。言葉にするとちょっと違う世界に行っちゃうので。


昭和後半の東京について書かれた文章も素敵でした。地方に住んでいると、東京って特別な都会だという印象があるのですが、都会にも日常の暮らしがあって、大人の生活もあれば子供の生活もあるという、当たり前だけど忘れがちなことを思い出しました。連載を続けるなかで、東京が故郷であるという実感をおぼえられましたか?

洞口依子 


  はい。
  関東平野。色川武大の小説の中で、関東平野育ちのことが書かれている箇所があって、いたく共感しました。
  私は人の書いた小説の文章にあまり共感とかしないんですけど。
  あれは、『怪しい来客簿』「門の前の青春」という話。
  「関東平野で生まれ育ったせいで地面というものは平らなものだと思ってしまっている」そこから、
  山というものが怖い、富士山が怖いって。私も関東平野でそだって、特に、武蔵野台地がちょうど終わるあたり。
  そっから先は脈々と山がつらなってる。夕暮れはそのシルエットがチョコベエのCMばりに恐ろしかった。
  あっち側には魔物が住んでいるとか。だから、箱根を超えるとか本当こわかったです。
  富士山も今でも好きじゃないです。やたらみんな撮影したりわあって喜ぶでしょう、仕方ないから合わせてるけど、
  どこがいいのかなあって、怖いだけじゃんって。

  あとは、戦中戦後の東京が好きです。
  焼け跡の匂いがする頃の。
  なんら詳しくないですが、薄目で見ると蘇るみたいな、銀座とか佃島とか歩く時、今でも薄目でみたりします。
  東京は本当に面白いです。私の生まれ育った武蔵野も大好き。その響きから、匂い、全部好き。
  武蔵境にいる伯父に言われました、武蔵野出身ってプロフィールに書かれてるのを見ると、「ああ、依子は武蔵野生まれなんだものな!って嬉しくなる」って。
  私はそれこそ小金井公園のすぐ隣に生まれ育ったのですが、そこから米軍の痕跡があるとこ、つまりフェンス越しばかりをみてきた。東京も米軍統治の痕跡はまだあったんです。
  生まれ故郷の武蔵野。改めて、玉川上水のあたりとか歩くと、実に心落ち着きます。

  映画でもそうですが、誰も知らないような風景ってあると思うんです。
  そこを焼き付けてゆきたいという衝動に駆られる時があります。
  この風景をどこかに焼き付けてゆきたい、いずれなくなるのであるならば。



昭和の大人の描写に、深みと言いますか、ちゃんと年輪を重ねた人たちの後ろ姿を感じたりしました。単に自分が子供だったからというのもありますが、当時は大人がちゃんと大人の顔をしていたなぁ、と。
洞口さんが今こうして昔の大人の姿を綴られる際に、現在の大人との違いに思いをめぐらせることはありましたか?

洞口依子 


  昔の大人というのは、いくつくらいなのかな。
  昭和の大人というと、戦争を知ってる大人ですよね。
  そこと比べると、確かに今の大人との相違は明らかです。
  戦争に行ってないし、戦争の焼け跡の匂いを知らない。
  ギリギリ、団塊世代でしょうか。
  ある作家が言ってました。海外でも国内でも、戦争の焼け跡の匂いを知ってるかないかで、
  文学的描写も、感覚も違ってくるって。
  確かに、ヘミングウェイも、ブコウスキーも、焼け跡の匂いを知ってる男たちです。
  それが直接小説になくても、なんだかあのすえた焼け焦げた匂いが立ち込めるのは不思議でなりません。
  でも、無邪気でもありましたよね。
  情報量が少ない分、想像力が鍛えられたのかしら。
  大人なのに、子供と遊ぶ時にめっちゃ無邪気なおじいさんとかいましたもの。
  左卜全を思い出すように。「老人と子供のポルカ」ですよ。あのコラボ感(笑)。


左卜全のイメージは絶妙ですね!なるほど、昭和の大人の無邪気さ、思いあたります。
洞口さんは80年代のど真ん中にデビューされて、「新人類」とか呼ばれたりもされていましたが、当時から漢詩を愛するなど、一貫して古典への関心も持たれていましたね。
そういう感性が、ちゃんとご自身の中に根を張って、古い人や風景を慈しむ心にも結びついているのでしょうか?

洞口依子 


  当時、大人たちからは時代錯誤じゃないかとか言われましたが、もともと古いものに愛着を感じるみたい。
  昔から、古い挿絵とか好きだったし、70年代の日中友好の際は、中国雑貨とかにめちゃくちゃ興味津々でした。でもそれって毛沢東語録とか毛沢東のプロパガンダ的な
  何かだったんですけどね。古くもない。だけどなんだか新しくもないという。あ、キューバも好きでした。


連載を始められてから、2010年代の後半を通じて現在にいたるまで、さまざまな物事が形を変えていっています。首里城のような悲しい例もありますし、近所の街並みもそうですし、コミュニケーションのツールの変化も。
この連載でも社会やご自身の変化のことを触れられていましたが、そうした変化には昔から意識を向けていましたか?それともこの数年での事でしょうか?

洞口依子 


  変化は、2004年くらいから肌で感じていたので、そうですね、感じてはいたけれど、
  やはりこの5年くらいの速さにはたまに茫然とする時もあります。
  しかし、変化は受け入れます。でも、変わらないもの、は変わりません。
  ブレない女。それが洞口依子です。
  でも、最近、芸名を変えようかと思ったり。母が洞口が大嫌いだというので。
  それこそ、生まれ故郷の生地の小金井よりこ、武蔵野よりこ、でもいいんですがなんかしっくりこない。
  母の生まれ故郷は宮城県名取市なので、名取依子 だと名取裕子さんに近くなっちゃう気がするし、上手くゆきませんねえ。
  もういっそのこと、ジュディ・オングさんじゃないけど、
  ヨーリー・ウォン とか華僑系にしちゃうとか。

中国の旅行についての回では、ドキュメンタリー映画『世界で一番ゴッホを描いた男』のシャオヨンさんを訪ねて深センを訪れた回、それに琉球王国の交易をたどって福州を訪れた回と、「のら猫万華鏡」でも特別な驚きを読者に与えました。
それぞれの回をいま振り返って、あらためて考えることはありますか?

洞口依子 


  もっとあちこち巡りたいという衝動に駆られました。
  あれは一切取材費でないので、自腹でしたが、それでもどうしてもあの映画の主人公に会いに行きたかった。
  そのくらいあの映画の彼は実に魅力的だった。
  久々ですよ、そんな思いに駆られたの。香港にたまたまいて、じゃあ行ってみようかってことで行きましたが
  本当にくたびれた。でも会えた。ものすごいゲージが上がって、ドキドキした。また会いに行きたいです。
  そして、次は絵を書いたい。現金(中国元)がなくて買えなかったので。
  福州もです。燃えた首里城を見て、王朝が栄た時代にバックトゥーしたいと思いますか?
  私は思ったんです。で、どうしても待てなかった。すぐに行こうと。
  たまたま沖縄からは2人きた。1人は?人の血が混じってた。琉球墓に辿り着いて、最後に?江の流れに身をまかせ、
  ああ、来れるものなんだな、こうして、行動あるのみなんだな、と。
  福州は近いですから。
  でも、本当は船で行きたかった。さすがに無理でしたが。
  次は、土楼に行きたい。土楼までは書きたかった。
  土楼ってすごい建築物があるんです。それこそ、中国は変な建築物の宝庫です。ビー・ガン監督の故郷にも行きたい。
  もっと移動したいんです。
  移動する民は強し。
  これは私のモットー。病や困難はあれど、だからゆえに、行動したい。移動したい。ここではないどこかへ。

カンボジアについての回もまた、読み終わってから、映画を観終えたような充実感を得ました。
あの文章でもそうですが、洞口さんは結論をあまり「こうだ」とか「こう思う」とは書かれないですよね。でも、読者はカンボジアでの朝陽を浴びている気持ちになります。
空気や色や匂いで描く・・・ベラスケスじゃないですけど(笑)・・・色や匂いが洞口さんの文章からはいつも強く感じられます。  
それは、断定するよりも感じることを大切にされているからでしょうか?

洞口依子 


  私の書いた紀行文で、ぜひ行ってみたい!と感じてくれたなら、嬉しいです。
  そうですね。
  感じることが好きですし、感じていたい。
  手紙ってありますでしょ?
  旅先や部屋で手紙を書いて、送るのが好きです。
  インクにその場の空気が混じって認めれるんですよ、そう思うとなんかすてきじゃない。
  タクラマカン砂漠じゃないけど、砂漠とかで自分に絵葉書出します。砂の小さな粒子がインクに封じ込められたりするんじゃないかしらって。
  しかし、あのカンボジアは素晴らしい旅でした。
  あれも思い切って行ってよかった。しかもあんな天体の状況を見ることができたとは。
  そして、カンボジアも映画の影響です。「失われたカンボジアロック」というドキュメンタリーです。
  あれはどこかで上映されないのかしら。私はサントラを聞いて涙するほど好きです。
  カンボジアのキャロル・キングの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」なんか最高ですよ。
  カンボジアといえば、ウォン・カーワイの映画(「花様年華」)で、トニー・レオンがカンボジアの遺跡にあれしにいく場面が好きでね。
  私も真似ました。
  一ノ瀬泰造の最期の場所も行ったり。こんなところで独り最期を迎えたんだって。ものすごく感慨深いものがありました。

古くからのファンには、デビュー時のエピソードをたくさん読めるのも楽しくて、私にとっても知らなかった事柄ばかりでした。
洞口さんのファンは遠慮がちな人が多いので、「もっとあの時の話を聞かせてください!」と言わないのですが、ホントはみんな知りたいんです(私だけが過剰に異常ということはないはずです・・・)。
「のら猫万華鏡」ではそれが今まで以上に読めて喜んでいる人も多いと思います。連載の過程で、そういうファンの反応は実感されましたか?

洞口依子 


  そうおっしゃってくださるなんて嬉しいです。
  実際、あまり声が届かないので、最初は誰も読んでないんだろうなと。。。
  そして、だんだんファンです、あの連載が好きだったという声を聞くたびに、
  ああ、よかった。私の書いたものでも役に立ってるんだと。
  そうですね、もっと色々書きたいんですけど、写真がない。
  写真があっても、お相手が有名人だからお出しできない。
  しかし、ファンの反応は本当に嬉しい。
  だから、もっともっと知りたかったです。
  まあ、Twitterでは知ることができますが。
  そして、いつかちゃんとまとめたいですね。
  そう、その時はお願いします。一緒にやりましょう。
  死んでからはやなので、生きているうちに。

洞口さんのフィルモグラフィーについて、私には常にお訊きしたいことが山ほどあります。
ドラマなんかは、もう見る機会がない作品も多いですね。
でも、たとえば久世光彦さんの作品はファンだけでなく、多くの人に見て語ってほしいです。当時の洞口さんにとって田中裕子さんや加藤治子さんとの共演がどんな経験だったのかなど、お訊きしたいですねぇ。

洞口依子 


  ああ、それはいつかどこかでちゃんと話してみたいです。
  19歳の私にとって彼らとの共演ほど緊張し、深く学びがあったこと。
  そして、女という形をした女優という生き物が存在するのだと、初めて知ったことでもあります。

遠い昔の作品ではなく、スコセッシ監督の「サイレンス 沈黙」の現場でのお話は、読んでいるこちらの胃が痛みそうな緊迫感が伝わってきました。
ファンとしては洞口さんがあの作品に出演されているだけでも誇らしいのに、あんなやり取りがあったとは!
そもそも、洞口さんはアドリブを入れることは多いのですか?素人目には、あまりそういう印象はしないのですが・・・。
あらためて「サイレンス 沈黙」の現場を振り返って、とくに思い返されることはありますか?

洞口依子 


  ありがとう。ちょっと書き物になると誇張した感はあるかもですが、
  私が台北の現場で感じたままを綴りました。もっと面白い話もあるんです。出番待ってる間の控え場所で窪塚キチジローが話しているフィロソフィーとも取れるお話とか。現場は本当に戦場でしたが貴重な経験でした。
  アドリブ、あると思います。でも、そこまで演技に自信がないからアドリブどうなんでしょうかね。
  でも、スコセッシ組で、私のアドリブを監督が受け入れてくださったことは、本当にうれしかったです。私の演技をちゃんとみてくださっているという嬉しさもありましたが、
  スコセッシ組で存在していたことの実感でしょうか。窪塚キチジローも、私の殺気だった目線を受けて演技ができたとおっしゃってくれた。俳優同士の演技のやりとりは、どこかgroove感と言うか、インプロセッションみたいな緊張感があります。

私が好きな洞口さんのアドリブは、「テクニカラー」での「色恋!!」です(笑)。

洞口依子 


  お恥ずかしい。
  そういえば、「ドレミファ娘〜」の追撮部分は確かアドリブというか結構自由にやったものです。テルオカ君とのくだりね。楽しかった。井の頭公園。


私は「のら猫万華鏡」は全編をとおして、さまざまな形での「旅」についてのエッセイとして読みました。国境を越えた旅、街角への旅、内面の旅、作品への旅、人生という旅・・・そう考えると、洞口さんはずっと一貫して「旅」に関心を注がれてきたと思います。
いま、物理的な旅が不自由になっていくなかで、洞口さんの表現はこの状況を乗り越える杖になると思っております。
「のら猫万華鏡」に綴られた国や場所はコロナ禍以前の世界でもありますが、コロナによって洞口さんにとっての「旅」への考えに変化はありましたか?

洞口依子 


  それは嬉しいです。
  旅と捉えてくださるとは、なんて素敵なんでしょう。
  人生は旅だと17歳くらいで気づきました。本からです。知らない土地に知らない列車に乗ってゆくこともしかりです。
  いや、もしかしたら、もっと前に一人で知らない街に行ったその時、旅の醍醐味を知っていたかもしれません。
  まだ「探検家」という職業が探検であった頃の探検家。花の種や動物を探しに航海するような。
  そういうものに憧れがあるんです、小さい頃から。
  コロナは色々なことを「不可能」にさせたけれど、はるか昔に戻ったという感覚はもしかしたら、こんな感じだったのかなとか。
  鎖国とか、海外に気軽に行けなかった時代です。
  そして、戦中。そんな中でも、果てなき夢を抱き、渡航したいと思っていた人々はいたはずですし、
  私はどこに行けなくなったとしても、憧れや今までの記憶でどこにでもいけると思いたいです。
  それを叶えてくれるのが、映画であり、本であり、絵画や写真であったりするわけで、
  それらの存在は大変ありがたい支えになると思います。

ここまでの質問の中で、「変化」という言葉を何度も繰り返しております。それは「のら猫万華鏡」のエッセイが物や人の変化に視線を向けているからですが、洞口さんの書かれる文章も「子宮会議」の頃から変化しているように感じます。
若輩者の不躾な感想で申し訳ないのですが、なにか、以前よりも「許す」ことの深さをおぼえます。いろんな物事に対して、厳しさと同時に「あるがままに」接する感覚が強まっていて、文章と文章の合間に安らぎを感じます。
以前の文章にも「あるがままに」を大事にされていましたが、今はそれが文章から自然に立ち上がってくるんです。
この感想をどう受け止められますか?「子宮会議」の頃と比べて、ご自身の文章の変化を実感されますか?

洞口依子 


  大変深い洞察を感服いたします。
  書かないでいると文章は下手になる一方だと思ってます。
  しかし、自分が思っている以上に、読み手がこんなに楽しんでくれている。
  それはとても嬉しいです。
  変化として私が感じるのは、本当に下手だと猛省することくらいです。
  許しということは自分の中では感じられませんが、もしかしたら、
  愛かもしれないです。
  私は愛する対象へ書いた文章ほどドラマティックでロマンを感じるものはないと思ってます。
  それは、小さい子が大人へ当てたものから、どこにでも当てはまると思うのです。
  愛がそこにあるのであれば。

  だから、愛を紡いでいたのかもしれません。
  もう紡ぐことはなくなってしまいましたが、
  いつかどこかでまた読まれるものを書けたらいいかもですね。
  今は、ちょっと書きたい気分にはなれませんがいつかそうなったらいいかも。

  長らくご愛読いただき本当にありがとうございました。
  ファンサイトの感想がいつも励みになってました。
  何よりも、人が読んでくださり、リアクションしてくれるのが本当に嬉しい。
  何も言われないことほど無気力を生むものはありませんから。

  本当にありがとうございました。

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2014年のインタビュー 

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