〜洞口依子さん出演作品解説〜

『白鍵と黒鍵の間に』(2023年)

 洞口依子さんが『パンドラの匣』(そして相対性理論の「地獄先生」のMV。どちらも2009年)以来、久しぶりに出演した冨永昌敬監督の作品です。
 一度読みだしたらやめられない南博さんの自伝的エッセイをもとに、ジャズ・ピアニストを目指してバブル期の銀座で修行する主人公(池松壮亮)の三年間を一つの時間枠に脚色して描いています。彼が銀座にやって来た姿と銀座を出て行こうとしている姿が、一晩に同時存在しているのです。
 異なる時間を物語内で往復するこの離れ業が鮮やか。辻褄合わせや伏線回収に腐心するのではなく、夜の銀座にタイム・トンネルが自然と空いていて、そこを登場人物が無意識のうちに通って可能性を探しまわっているような、不思議だけど本当なのだと思わせる釣り合いの感覚が秀逸です。別の時間なのに、同じ場所で、同じ人たちが同居している、ユニークな作り。

 物語中、主人公の南(もしくは博)が銀座での煮詰まった生活からアメリカへ脱出するために必要とされるものが二つあります。母子手帳とデモ・テープです。どちらも原作にエピソードとして出てきますが、映画ではその二つを物語の要所で用いています。
 デモ・テープは現在の南の演奏を、かなりのカオスな状況下ではあるけれど、録音したものです。その時点での、今という瞬間の彼と、彼の抱えた混乱も含めた全てが記録されています。
 母子手帳は彼の人生の出発点です。生まれたての、ゼロだった彼の証。当初、母親が母子手帳のかわりに臍の緒を持参して届けることも、その印象を強めます。そのお母さんを演じているのが洞口依子さんです。

 パンフレットに掲載された富永監督のエッセイを読むと、この母親像は洞口さんを当て書きしたのだそうです。その情報を知らずとも、『パンドラの匣』で洞口さんが演じた母親の、地に足のついていないフワフワとした、それでいて病弱な息子(染谷将太)を自慢に思って注ぐ愛情と通じるものを私は感じました。ちなみに、『パンドラの匣』でのお母さんは息子にマフラーを持参し、柔らかい笑みを浮かべて首に巻いてあげます。
 『白鍵と黒鍵の間に』の母親は早合点な人として描かれています。登場の仕方も、まさかここに現れないだろうという場所に現れます。それに対する息子の困惑は私にも身に覚えのあることです。母親というのは、肝心なことでトンチンカンな言動をとりがち。だから息子は苛立ち、きつい言葉を浴びせたりもします。齢をとれば母に対する過去の自分の行いを反省し、心配かけたことを申し訳なくも思うのですが、若くて前しか見えていない頃には苛立つだけです。オレのことなんか、なんにもわかってないし、なんにも知らない、それが母親という生き物なのだと。

 だけど母親は息子をわかっているし知っているんです。若い息子にとっては迷惑でしかないその思いの強さが、夜の銀座でネオンとは別の灯りをともすのが本作での洞口さんです。堅気ではない人たちが跋扈し、ゾンビが裏通りで倒れているジャングルを、虎も狼も物ともせずに臍の緒を届けに来る。親のありがたみを実感できない息子は「母子手帳を持ってきてって言っただろ!」と怒鳴る。その剣幕に笑って応える洞口さんは本作のキャラクターでもっとも具体的に「ノンシャラント」を体現しています。
 彼女は終盤にも現れ、息子が自問自答から目覚めた直後に再びスクリーンを温めます。そのとき母子手帳は、主人公のゼロの証であり、未来へのパスポートでもあります。母親はその二つを頭で認識せずとも、心のどこかでちゃんと受け止めているんです。その広さと安心が本作での洞口さんから滲み出ています。
 ゼロと未来の間に嵌りこんで身動きがとれない子供に、今は必要とされないかもしれないけれど、じつはとても大切な、掛け替えのない笑顔で向き合う母親。子供がどんなにクールに振る舞っても、どんなに偉くなっても、これには勝てません。
 洞口依子さんが向けるノンシャラントな笑顔に和み、月並みですが私は自分の母親への感謝の気持ちをおぼえました。

 洞口さんが登場する場面は、主人公の実人生に直結した母親役でありながら、ファンタジックな意外性を放っています。よくぞこの場面を用意してくれましたと言いたくなるほど、「冨永作品で洞口依子を見る喜び」をもたらします。

出演
池松壮亮 森田剛 仲里依紗
高橋和也 松尾貴史 川瀬陽太 クリスタル・ケイ 松村契
洞口依子 佐野史郎 中山来未 杉山ひこひこ 
 
監督 冨永昌敬
原作 南博
脚本 冨永昌敬 橋知友
音楽 魚返明未
撮影 三村和弘



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洞口日和